自分のなかに棲む怪物が、自分のことを食い尽くそうとすることへの恐怖。どうにか対話を試みて、宥めて鎮まらせようとしても、気を緩めればすぐにでも襲いかかってくる。暴れて溢れて止まないものたち。統御なんて無意味だし不可能だけど、描き出された昆虫や人間の異形のモティーフたちを構成する線は、それを律しようとする意志の強さと葛藤があらわれているかのように、どこか醒めていて、理知的で、博物学の版画のように綿密で繊細。
2019/01/10
光宗薫個展『ガズラー』ヴァニラ画廊
自分のなかに棲む怪物が、自分のことを食い尽くそうとすることへの恐怖。どうにか対話を試みて、宥めて鎮まらせようとしても、気を緩めればすぐにでも襲いかかってくる。暴れて溢れて止まないものたち。統御なんて無意味だし不可能だけど、描き出された昆虫や人間の異形のモティーフたちを構成する線は、それを律しようとする意志の強さと葛藤があらわれているかのように、どこか醒めていて、理知的で、博物学の版画のように綿密で繊細。
2017/04/16
2017/04/03
2017/04/02
ブライス15thアニバーサリーエキジビション『スウィート セレブレーション』、清水真理「Dolls Fantagic Circus」横浜人形の家
横浜人形の家のブライス展と清水真理さんの個展。
ブライス展は歴代のブライスが一堂に会して…という感じで、過去に開催されてきたブライス展とさして大きくは内容が変わらず、目新しい何かがあったわけでもない(気がする)。人形それ自体の展示の機会があるだけで貴重ではあるけれど、タカラトミー以降のブライスの歴史はそれほど深いわけではないし、コンテンツに限界があるというか。
きっとそんな余裕はないのだろうし大人の事情もあるのだろうけど、ヴィンテージになったアメリカ時代のブライスについてはもっと色々知りたいと思う。それが難しければ、愛好家たちの写真のコンテストでもして、その展示があるとかであればまた広がりがあって面白いと思うのだけれど。あとは、カスタムだったり、お針子お裁縫文化だったりもあるわけだし。ドールそれ自体の商品史というより、ドールをめぐる周辺のあれこれにまで射程を広げてもっとカルチャーとしての分析や考察が見られたら面白いのになと思う。
清水真理さんの個展は本当によかった。私の心の共鳴しちゃう子、みっけ。
『花鳥絢爛 刀装 石黒派の世界』刀剣博物館、『月——夜を彩る清けき光』 松濤美術館
■『花鳥絢爛 刀装 石黒派の世界』 刀剣博物館
これほど近所にあって気になってはいたのに、初訪問。日本刀は勿論初心者だけれど、刀というよりもその装飾の展示だったために知識がなくても楽しめた。れっきとした武具であり殺傷のための刃物であるにもかかわらず、美術品として愛でられる。指で刃にそっと触れてなぞりながら、柄や鐔を目でじっくりと撫でてみたい。危うさを秘める煌めきは、鋭くもあり同時に鈍くもあるようで、いつ露わになるとも知れぬそんな暴力性とは無縁にもみえる、絢爛で典雅な装飾たち。用と美との絶妙な均衡?
たぶんその美学の精髄が存分に詰まっているのが、私の中のイメージでは赤江瀑。
■『月——夜を彩る清けき光』 松濤美術館
2017/02/18
『須川まきこ展』『ピエール・モリニエ展』ヴァニラ画廊
ヴァニラ画廊。須川まきこさん、初めて知ったのだけれど、とってもキュートだった。女の子がみたらきっと誰もが胸きゅんしてしまうだろう。そして作品集も、まっピンクなの!特装版はピンクのボンボン付き。ああ、可愛い…。
モリニエはいまさら特にコメントすることもないけれど、彼の評伝のタイトルに少し驚く…、『モリニエ、地獄の一生涯』ですって。なんという。
2017/01/10
『杉本博司 ロスト・ヒューマン展』東京都写真美術館
恵比寿の写真美術館のリニューアルオープン。その展示の第一弾がこの展覧会。事前に評判を少しだけ聞いてはいたけど(「写真」を見に来た人にとっては「写真」が全然ないので肩透かしを食らう、とか)、想像以上にこの展示はちょっといただけないと感じてしまった。とにかく、寒くて、痛々しくて、気恥ずかしい。展示内容はまずメインとなるシリーズがかなり大規模なインスタレーション。展示室内の各スペースに文明の終りに関する33のシナリオがあって、一つ一つのシナリオはある職業の人間が書き残した手記やら日記やらという体を取っているのだけど、「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という出だしで手書きで書かれ(各界のかなりの著名人たちが選ばれている)、そこに描かれたものから想像される状況が様々なものたちのインスタレーションで表現される。
展示空間が細かく分けられて、それぞれに世界の終り、要するにディストピアが延々と繰り広げられているわけだけど、問題なのはそのどれもがちょっと呆れてしまいそうになるくらいに陳腐で薄っぺらでしかないということ。こんなシナリオはこれまでのSF小説のなかにどれだけありふれて量産されてきただろうというか、素人臭いというか、もはや誰もこんなの使わないのだけど…まさかこれを本気で考えたのかな、と疑わざるを得ない。
じゃあ仮に、このディストピア観が「ださい」ものであったとしてもよいだろう、しかしではこのシナリオを使うことによって作者は何を言いたいのだろう?…ということもいま一つこちらに伝わってこない。展示のあいさつなどを見る限りでは作者には何か伝えたい、鑑賞者に訴えかけたいらしいことが確実にあるようなのに、それがなんだかあまりはっきりとしない。人類にとって暗く悲惨な将来が訪れることの予言、それを避けるために現在において私たちが何をすべきか?の再考、あるいは単なるペシミスティックな状況を愛好する被虐的な気質なのか。ディストピア的状況だけぽーんとただ列挙されても、こちらとしては「はあ、そうですか」としかならない(私だけ?)。ともかく、この展示の優れた点を見つけるように言われても、私には残念ながら、よく分からなかった。
今回展示されていた他のシリーズのうち、廃墟劇場はとても美しく好きだった。映画を投影されたスクリーンから発される茫漠とした白い光と劇場の荒廃との対比が神々しくもあり、いつまでも見つめていたくなる…。
東京都写真美術館はリニューアル・オープン/総合開館20周年記念として「杉本博司ロスト・ヒューマン」展を開催します。杉本博司は1970年代からニューヨークを拠点とし、〈ジオラマ〉〈劇場〉〈海景〉などの大型カメラを用いた精緻な写真表現で国際的に高い評価を得ているアーティストです。近年は歴史をテーマにした論考に基づく展覧会や、国内外の建築作品を手がけるなど、現代美術や建築、デザイン界等にも多大な影響を与えています。
本展覧会では人類と文明の終焉という壮大なテーマを掲げ、世界初発表となる新シリーズ<廃墟劇場>に加え、本邦初公開<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>、新インスタレーション<仏の海>の3シリーズを2フロアに渡って展示し、作家の世界観、歴史観に迫ります。
展覧会はまず、文明が終わる33のシナリオから始まります。「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という杉本自身のテキストを携え、≪理想主義者≫≪比較宗教学者≫≪宇宙物理学者≫などの遺物と化した歴史や文明についてのインスタレーションを巡り歩きます。これは2014年パレ・ド・トーキョー(パリ)で発表し、好評を博した展覧会を東京ヴァージョンとして新たに制作したもので、自身の作品や蒐集した古美術、化石、書籍、歴史的資料等から構成されます。物語は空想めいていて、時に滑稽ですらあります。しかし、展示物の背負った歴史や背景に気づいた時、私たちがつくりあげてきた文明や認識、現代社会を再考せざるを得なくなるでしょう。
そして、本展覧会で世界初公開となる写真作品<廃墟劇場>を発表します。これは1970年代から制作している<劇場>が発展した新シリーズです。経済のダメージ、映画鑑賞環境の激変などから廃墟と化したアメリカ各地の劇場で、作家自らスクリーンを張り直して映画を投影し、上映一本分の光量で長時間露光した作品です。8×10大型カメラと精度の高いプリント技術によって、朽ち果てていく華やかな室内装飾の隅々までが目前に迫り、この空間が経てきた歴史が密度の高い静謐な時となって甦ります。鮮烈なまでに白く輝くスクリーンは、実は無数の物語の集積であり、写真は時間と光による記録物であるということを改めて気づかせてくれるこれらの作品によって、私たちの意識は文明や歴史の枠組みを超え、時間という概念そのものへと導かれます。その考察は、シリーズ<仏の海>でさらなる深みへ、浄土の世界へと到達します。<仏の海>は10年以上にわたり作家が取り組んできた、京都 蓮華王院本堂(通称、三十三間堂)の千手観音を撮影した作品です。平安末期、末法と呼ばれた時代に建立された仏の姿が、時を超えていま、新インスタレーションとなって甦ります。
人類と文明が遺物となってしまわないために、その行方について、杉本博司の最新作と共に再考する貴重な機会です。ぜひご高覧ください。
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2565.html[2017/01/10]
『あゝ新宿―スペクタクルとしての都市』展 早稲田大学演劇博物館
60年代の新宿!ほんとうに、素晴らしいテーマ。展示空間で、タイムスリップをして思いきりあの時代の空気感に浸ることが出来て(生まれていないけど)。
東京の色々なエリアのなかで新宿は、なんだかんだ自分が強く愛着を抱いている街ではある。 色々な層やタイプの人がいて、雑多で、人も物も溢れてごちゃごちゃしていて、でも歩いている人たちは互いに各々の目的を持っていてすれ違いだけ。「若者の街」の渋谷、ファッションの街としての原宿、のように何か人々の特定の部分に働きかけてそこを目指させるような街の求心力があるというよりも、新宿は仕方ないからここにきている・通過している、という感じで、むしろそれがとても心地が良い。
60年代というのは新宿にとってもきっとまた特別なものがあるのだろうが、新宿の地に降り積もる歴史を追ってみたいなと思っていたら、どうやら「新宿歴史博物館」なるものがあるらしく、これはぜひとも行かないとならない。
1960年代、新宿は明らかに若者文化の中心だった。紀伊國屋書店、アートシアター新宿文化、蝎座、新宿ピットイン、DIG、風月堂、花園神社、西口広場……。そこには土方巽、三島由紀夫、大島渚、唐十郎、寺山修司、横尾忠則、山下洋輔らさまざまな芸術文化の担い手たちや若者たちが集結し、猥雑でカオス的なエネルギーが渦を巻いていた。新宿という街自体がハプニングを呼び込む一つの劇場、一つのスペクタクル、あるいは一つの祝祭広場を志向していたのだ。では、現在の新宿はどうか。かつてのようなエネルギーに満ち溢れた新宿独自の文化は失われてしまったのだろうか。
本展では、新たに発見された劇団現代人劇場『想い出の日本一萬年』(作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄、アートシアター新宿文化、1970)の貴重な舞台映像や大島渚監督『新宿泥棒日記』(1969)の上映をはじめ、写真やポスターなどさまざまな資料から新宿の文化史を辿り直すとともに、新宿の今を検証する。そして磯崎新による幻の新都庁案で提示されていた祝祭広場の思想を手がかりに、祝祭都市新宿の未来像を構想したい。
【磯崎新の新都庁案とは】
現在の東京都庁舎建設に際して、1986年に行われた指名コンペでは、9つのプランが提案され、そのうち8案は、100mを超す超高層案だった。唯一、磯崎新は、これに真っ向から対立する案を提出。磯崎は、新宿の文化が孕む「闇」の覚醒を画策していたのだ。
本展では、未来の新宿文化を予言する意図で、展示室一室を使って、1986年に準備された、磯崎新による「東京都新都庁舎のためのプロポーザル」の原本とその全ページ、当時最新だったCAD(computer-aided design)による透視図を展示している。さらに、近年、磯崎新の新都庁舎計画を大胆に再評価したテレビ番組『幻の東京計画〜首都にありえた3つの夢』から、CG映像を上映する。
http://www.waseda.jp/enpaku/ex/4395/ [2016/09/11]
「人造乙女美術館」ヴァニラ画廊
話題性もあったからか展示にはそこそこの人がいて、男女比はちょうど半々。年齢層はだいたい20代~50代くらい。
ドールの感想。見た目はこれまで見た写真から予想していた通り、という感じ。触ることができるドールも用意されていたので、手を握ったり胸を押したりしてみた。触感はかなりしっとり、ぺたぺたしていて独特。人間の肌のすべすべとした触り具合とは大きく異なる。これはこういうものだとみないとならないかもしれない。
一応は現実の女性の代替として、これを現実の女性と完全に置き換えて想像する、というのが想定された使い方だとおもうのだけど、このラブドールのファンの一部には、彼女が「ドール」だからこそ欲情する、という方が大きいのかもしれない。それは一種の「倒錯」の部類。生の無い対象。ネクロフィリアと人形愛の狭間。
気になった点としては、オリエント工業のドールたちとは、私たちは決して目が合うことがないということ。人形たちはそもそも正面は向いていないし、目を合わせようと顔を覗き込んでもなかなか合わせることができない。すべてのドールがそうであったから、おそらくそれは意図的なもので、「恥らい」的なものの演出なのか。
*
今回展示されていたドールたちは「展覧会」向けに制作されているということもあって、やはり通常販売している商品の女の子たちとは違う。重要な「用途」のひとつである性器の部分は隠されているし、第一お洋服を着ていて、大きな着せ替え人形かマヌカンといったところ。
あえてそのようにしているのは、販売者側のイメージ操作の問題(いやらしくない、美術作品のよう、本物の女性みたい)というのがあるのはもちろんあるとは思うが、他には倫理的な問題云々もあるかもしれない、とも思った。
男性がプライベートな空間においてあくまでも「リアル」と同じように扱う女性である、すなわちヒトガタにおいて「人」という性質を最大限に見てとっている。ラブドールという「人形」においては、「人間の代理」という役割が何よりも大事。
それを女性側の視点から考えるならば、本物の女性と同じものである以上は、人前で破廉恥な恰好はさせられない、とか。ドールに一応の敬意を払っているということ。
また男性側からしたら、自分たちの親密な関係性を結ぶ「女性」とその間の関係性を見世物のように鑑賞者たちに面白がられるというのは気分の良いものではないだろうから、そのあたりの会社側の配慮も多分にあるだろう。
ただ、どれほどそれらしさを消そうとするとしても、展示されているのは紛れもなくラブドールであってダッチワイフであって、私たちはそのドールの精巧さときれいさとに感心してしまうけれども、良く考えれば実際に男性が「使用」しているさまというのは全く想像もさせない空気というのは逆に妙なものである。
ともかく、今回の「人造乙女美術館」で展示されていた彼女たちには少なからず「よそ向き」という印象があった。本当のラブドール「らしさ」を感じるためにはやはりショールームへと出向くことが必要かも。
人形でありながら生活に密接し、社会性を持ち、何より愛を受けるために創られた「ラブドール」という存在。オリエント工業製のラブドールは、女性の似姿の中で最も愛を受ける形を極限まで追求した職人技術と、 「人と関わり合いを持つ人形」を制作するという志の結晶ともいえるでしょう。
ヴァニラ画廊では過去4度にわたり、オリエント工業の協力の元、不気味の谷を一足飛びで跳躍するラブドールの魅力の系譜を辿り、人形の新たな側面を異なる角度から見つめてきました。
今回は特別に、美術評論家の山下裕二氏監修のもと、日本画家・池永康晟の美人画をラブドールで完全再現し、ドールの持つ美しさと美術表現の新たな魅力と可能性に迫ります。
また、他にも絵画の中から再現した美女たち、近未来を予感させる最新ドールインスタレーションなどを展示予定です。 人には宿ることのない不思議な魅力を持った、最も美しいドールたちの魅力を是非ご覧ください。
http://www.vanilla-gallery.com/archives/2016/20160425ab.html [2016/5/31]
『大妖怪展――土偶から妖怪ウォッチまで』、『伊藤晴雨幽霊画展』江戸東京博物館
妖怪の夏、にしようと決めていた――わけではなかったけど、今年は結果的に例年よりも多くの時間、妖怪に想いを巡らせる夏になっていた。それもこの大妖怪展の開催というきっかけが大きかったかもしれない。毎年夏には何らかの妖怪系の展示や雑誌の特集が組まれることは近年特に定番になりつつあるが、その対象としていたのはどちらかといえば比較的もとから「こっち系」が好きな人がほとんどだったのに対して、この大妖怪展と、おそらくこれに合わせてユリイカが思い切り「ニッポンの妖怪文化」と来たのはかなり大きい。ユリイカ、迷わず購入したけれど、京極氏と小松先生のインタビュー、各々の論考も多方面の研究者の方によるもので、文学と美術と民俗学と比較文化…と実に充実している。多様な領域からアプローチが可能な妖怪、本当に愛おしい。永久保存版ではないかしら。
大妖怪展は開催の告知を見てからはずっと楽しみにしていて、ただすでにこれほど多くの場所で語られている「妖怪」を取り上げてどれほどの新奇性が出せるかというところも、テーマが大きすぎるためにどのような切り口で構成し展開していくかどうかも難しい問題だと思うので、正直どれほど期待ができるのかという不安もあった。大体、「大」なんて、みずからハードルをあげるようなことをして…。
だが良い意味で予想を裏切ってくれた。私自身、妖怪関連の言説をすべて追うことができているわけではまったくないが、ある程度の妖怪好きとしてもこれまで見たことのないような類の絵がいくつもあり満足だった。
もちろん「大」とつくからにはもっとあらゆる絵画や史料が膨大にあるのが理想だし、あれもないこれもない、というのは見つかるし、最後の妖怪ウォッチは“取って付けた感”しかないし、全体的にかなり駆け足になっている感じは否めないけれど、そもそも妖怪なんていうものを全部網羅することなんて不可能。だからコンパクトという意味で肯定的に捉えてしまって良いのかな。マニアの人からしたら色々と文句はあるのかもしれないが、何か決定的な過不足や偏りをすぐに指摘できるほどに、妖怪に詳しいわけではない…。
*
大妖怪展はメインではあったけれど、もうひとつの今回の大事なお目当てが、伊藤晴雨。まさかあの晴雨と、夏休みファミリー子ども向けの妖怪展を同時開催なんて…と知った時には驚いたけど杞憂でした。言うまでもなく晴雨といえば責め絵、というイメージが定着してしまっているように、私も彼には20禁の和製フェティッシュSM画家、という印象ばかり抱いていた。それはそれで大いによろしくはあるのだが、あれほどに強烈な絵を描く人が、今にも消えいってしまいそうな幽玄の美を表現することのできる画家であったとは知らなかった。案外にも融通の利く人なのだ…。
けれど、ただの薄ぼんやりとした幽霊の絵、というのとは違って、けしておどろおどろしいわけではないのに、一体一体の幽霊たちは生き生きと(?)していて、どこか凄みを感じさせるところがある。どうも強く惹きつけられてしまった。画集が欲しかったな。
妖怪は、日本人が古くから抱いてきた、異界への恐れ、不安感、また〝身近なもの〟を慈しむ心が造形化されたものです。「百鬼夜行絵巻」(ひゃっきやぎょうえまき)などに描かれた妖怪たちの姿は、一見すると不気味ながら、実に愛らしさにあふれています。
日本絵画史上、異界の生き物としての「鬼」や「化け物」が登場するのは平安時代の末期、12世紀とされます。たとえば、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、邪気を退治する神々を描いた国宝「辟邪絵」(へきじゃえ)や、国宝「六道絵」(ろくどうえ)に地獄の様相があらわされ、鬼が数多く登場します。これらが妖怪誕生のイメージ・ソースとなります。中世に入ると、いよいよ妖怪の登場です。気弱そうで同情を引く顔つきの妖怪が登場する重要文化財「土蜘蛛草紙絵巻」(つちぐもそうしえまき)や、古道具を妖怪化させて物の大切さを説く「付喪神絵巻」(つくもがみえまき)など、親しみやすさが色濃くなります。さらには、コミカルな鬼たちが京を闊歩する室町時代の重要文化財「百鬼夜行絵巻」や、江戸時代では葛飾北斎「百物語」や歌川国芳「相馬の古内裏」(そうまのふるだいり)などの作品が、後世に大きな影響を与えました。
本展では、古くから日本で愛されてきた妖怪、すなわち〝異界への畏れの形〟の表現の展開を、縄文時代の土偶から、平安・鎌倉時代の地獄絵、中世の絵巻、江戸時代の浮世絵、そして現代の「妖怪ウォッチ」まで、国宝・重要文化財を含む一級の美術品で紹介します。民俗学にかたよりがちだった従来の妖怪展とは一線を画す美術史学からみた〝妖怪展の決定版〟です。
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ [2016/09/11]
2016/12/25
2016/10/02
『パロマンポルノポスター展 by Gaku Azuma』ポスターハリスギャラリー
アツコバルーのエロトピア・ジャパンと同時期に開催していたもの。東學さんは以前の展示で好きになったけど、今回はかなり趣向が違う。
へええ、なるほど…しかし、ロマンポルノというのものに全然詳しくないので、実際のそういう類のものの、どのあたりを揶揄していたりとかパロっているのか、というのはいま一つピンと来なかった。でも制作していてきっと楽しいんだろうなということは想像がつく。いいな、実践できて。
『「神は局部に宿る」都築響一 presents エロトピア・ジャパン展』アツコ・バルー
行こうか、行くまいか、さんざん悩んだけど結局会期末近くになって訪問を決意。ひとりでこの類のものに出かけることに対して何も感じないというわけではない。だけど、家が近いし、通りがかりだし、仕方ない。話題性もあるし、ほら、風俗って、都市史とかすごい関係あるし。
秘宝館、ラブドール、ラブホテル…といった内容についての考察は、たまに本が出ていたりするけれど研究書というよりサブカル書のイメージ。専門家の方とかいるのだろうか。ともかくこのテーマの展示が渋谷の立派なギャラリーで開催された、ということには大きな意味があると思う。失われつつあるエロ文化。個性豊かでトンデモなラブホテルたちが風営法の強化によって淘汰されつつあるというように、猥褻なはずのものさえオシャレなものとなりつつあることを嘆くべきなのかどうかは知らない。しかし変わりゆくものとして捉えておくのはだいじな試み、たぶん。地味に波がきているのかもしれない。
日本を訪れる外国人観光客は、氾濫する性的イメージにいきなり圧倒される。通りにはみ出す風俗看板に、路傍でチラシを配るメイド少女に、DVD屋のすだれの奥に、コンビニの成人コーナーにあふれ匂い立つセックス。そしてハイウェイ沿いに建つラブホテルの群。
この息づまる性臭に、暴走する妄想に、アートを、建築を、デザインを語る人々はつねに顔を背けてきた。超高級外資系ホテルや貸切離れの高級旅館は存在すら知らなくても、地元のラブホテルを知らないひとはいないだろうに。現代美術館の「ビデオアート」には一生縁がなくても、AVを一本も観たことのない日本人はいないだろうに。そして発情する日本のストリートは、「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」だらけなのに。
ラブホテルもイメクラも秘宝館も、その作り手たちは、自分がアートを作ってるなんて、まったく思っていない。彼らが目指すのはただ、自分と受け手の欲望と妄想をもっとも完璧に満足させる装置である。性欲と金銭欲とを両輪にドライブしつづける、そんな彼らのクリエイティヴィティの純度が、いまや美術館を飾るアーティストの「作品」よりもはるかに、僕らの眼とこころに突き刺さってくるのはどういうことだろう。アートじゃないはずのものが、はるかにアーティスティックに見えてしまうのは、なぜなんだろう。
さげすまれ、疎まれることはしばしばでも、敬意を払われることは決してないまま、それらはひそかに生き延び、いつのまにか消えていく。
日出づる国のブラインドサイドに響く、その歌が君には聞こえるだろうか。
都築響一
○展覧会に寄せて
都築響一の仕事はユニークで筋が通り、とにかく勇敢である。芸術と言う肩書きを持たないが心打つもの、周りからは変人としか見られていないが自分の価値観を曲げずに生きている自由な精神を持つ人達を取材すること何十年。彼のメールマガジンには毎週、紙ページにしたら60ページくらいになるかと思う記事が載せられている。
○隠れた、でも実は有名な日本文化
テーマは「エロ」である。昭和30年生まれの女子である私は躊躇した。男性の飽くなき性欲とか妄想、と言うのは辟易するテーマ(実は不快)である。しかし自分に張り付いた社会の道徳や取り決めを取り払って観察すると、日本の「エロ」は確かに特殊で詩的ともいえる。ラブホやイメクラには物語があり、物語に男性は酔う。実際いやらしいのだが、西洋のそれのように後ろめたく陰湿ではなく遊び心にあふれている。西洋の「エロ」がおぞましい肉と肉のぶつかり合いに終始するのとは全然違うのだ。いかに男性の精神と体が複雑になれるかを表している。日本の「エロ」は文化的で進歩形だと思う。
○神は本当に局部に宿るのか
国や社会は個人を統制する大きな機械である。しかしどんな精巧な機械の下でも、凡庸な個人が自由を味わえる瞬間がある。それは恋愛、セックス(結婚ではなくて)、お酒、ドラッグ、そしてアートによってもたらされる。故にセックスは悪いもので隠れて行われるべきと思われる。しかし上記のものをたしなんでいる時、人は完全に自由な個人として宇宙に存在する事ができる。その瞬間の継続を探るのが哲学であり宗教である。
○なぜ、今「エロ」なのか?
世界が不安である。日本の社会も同様だ。いくら亀のように手足を引っ込めてやり過ごしたくても、私たちは嵐に巻き込まれている。そんな時代が20世紀の初めにもあった。第一次大戦前夜である。戦争に走る世論の中で平和運動に身を投ずる者もいれば、個人の精神と妄想、神秘的な経験に自由を求めた学者や芸術家達もいた。それは現実逃避ではなく、怒濤に飲み込まれない精神の自由を勝ち得る為の手段だった。彼等とは、アールブリュットの作家を取り上げた人たちやユングやシュタイナー*である。しかし、そんな遠い国の昔の文献を読まずとも、我々には運の良い事に都築響一がいる。エロの楽園、エロトピアに遊びにきてください。この名もなき芸術家(?)達の提示する妄想のブレーンストーミングを受ければ、あなたにも社会に惑わされない強いエゴ=エロが出てくるはずです。
*ユングとシュタイナー:2013年のヴェネチアビエンナーレのエントランスを飾った強烈な展示はユングのレッドブック(精神病患者の妄想を彼が絵にした巨大な赤い本)とルドルフ・シュタイナーの黒板(彼の講義中に描いた黒板)、そして女性画家で神秘主義と象徴主義のヒルマ・アフ・クリントなどに続いて澤田真一、大竹伸朗、吉行耕平。という強烈なラインナップで私はそこにはっきりとしたメッセージを感じた。言葉で説明しないと成り立たない現代アートにもう限界を感じているのだ。霊的な物、魂の根源からくるもの、町で拾った紙のスクラップブック、そして覗き写真。あそこに都築響一の秘宝館コレクションは絶対あってよかった。と確信している。皆さんヴェネチアにいると思って下さい。とても運がいいです。飛行機代なしでビエンナーレが見せたかった物が見られますよ。
私にとって今回の展示は2014年の6月に行ったアントワーヌ・ダガタの展覧会『抗体』とメッセージは同じです。ただあの展覧会では皆泣いてしまったが今回は皆さんに笑って欲しいです。
2016年 春 アツコ・バルーhttp://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2016/0611_3709.php [2016/09/11]
2016/09/12
『木々との対話──再生をめぐる5つの風景』東京都美術館
開館90周年記念イベントということらしい。出品作家は國安孝昌、須田悦弘、田窪恭治、土屋仁応、舟越桂の5名。須田さんの作品がとても気に入った。現実には有り得ないはずの、思いがけないところにふとあらわれるお花や雑草。白壁を背景にオブジェのように飾られているものもあれば、注意しなくては見えないところに植えてあったりもする。都会の街の、あるいはビルの中の、どこかに密かにひっそりと生えていたら素敵かも。
会場全体に漂う木の香りに心が癒される展示。(?)
『SHIBUYA,Last Dance_』パルコミュージアム
渋谷PARCOが一時休業のため閉館。私自身は公園通りのあたりの最盛期を知らないし、PARCOも別にそれほど思い入れがあるわけではない。だけれど渋谷の近辺に暮らして毎日のように通過している身としては、渋谷を象徴するようなビルのひとつが閉館してしまうことに、寂しい思いがまったくないわけでもない。私は生れた時代も自分の趣味もややずれているので展示にピンとくるものは多くなかったけど、PARCOを中心とする公園通りのかつての活気が思い起こされるような気がした。
もうひとつ、PARCO GALLERY Xでの展示、『女子と渋谷の写真展』も良かった。あらためて私は渋谷系には縁遠いと感じたが。宇田川町地区再開発計画、あのあたりは今後どのように生まれ変わっていくだろう、西武グループの方針が気になるところ。
渋谷パルコは、渋谷宇田川町地区再開発計画に伴い、2016年8月7日に一時休業をすることとなりました。
パルコミュージアムでは残り3本の展覧会を「SHIBUYA PARCO MUSEUM FINAL EXHIBITION」と銘打ち開催してきました。この度、2016年7月29日(金)から8月7日(日)で開催いたします『SHIBUYA, Last Dance_』と題したグループ展で最後を飾り、一旦その役割を終えます。
渋谷パルコは、1973年のオープン以来、若者文化のシンボルとして渋谷の街と共に成長し、ファッション・アート・デザイン・音楽・映画・出版、そして演劇まで様々な文化を発信してきました。時代時代にパルコと深く関わった12組のアーティスト、ミュージシャン、ファッションブランドが競演する最後の展覧会『SHIBUYA,Last Dance_』。少しの間のさよならと、新しい未来へのメッセージを込めて、夢のオムニバス・アルバムのような、パルコミュージアム「最後の一幕」が上がります。
「渋谷パルコ。新しい未来へ向けた「最後の一幕」が上がる。」
伊藤桂司/井上嗣也/小沢健二/佐藤可士和/しりあがり寿/寺山修司/東京スカパラダイスオーケストラ/日比野克彦/
森山大道/HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE/TOMATO/Ground Y
http://www.parco-art.com/web/museum/exhibition.php?id=987 [2016/09/11]
2016/09/11
『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』東京国立近代美術館

国立近代美術館の企画展、詩人・吉増剛造(1939-)の展覧会。
展示は1.日記 2.写真 3.銅板 4.声ノート 5.原稿・メモ 6.映像 7.怪物君 8.飴屋法水による空間 9.シアタースペース という9つのエリアに分けて構成される。
私は訪れる前に作品を一篇も読んだことがなかったから、展示で初めてこの詩人を知り、向かい合うことになる。だからあくまで展示としてどうであったかということしか判断ができないけれど、何も知らない人間も(だからこそ?)面白く鑑賞して回ることができた。9つのブースのすべてがそれぞれ記憶に残り、思い出せる。特に印象深かったのは22歳から現在までずっと付け続けているという日記と、自筆原稿。作家の字は御多分に漏れず非常に読みづらいが、文字の配置を工夫したり色とりどりのペンが使われていたりと、それ自体が作品かのよう。写真作品は多重露光を利用したものでこれも美しく、「声ノート」は詩人自身の朗読の声に加えて、他人の詩の朗読、日常的に聴いていたのだろうJazzやClassicの音楽、いくつかの講演会の記録音源等も含まれている。
白くふわりとしたカーテンでゆるく仕切られた会場を歩きながら、展示空間の全体から、「声」が感覚へと浸透して来るのがわかった。
本展は日本を代表する詩人、吉増剛造(1939 ‒)の約50 年におよぶ止まらぬ創作活動を美術館で紹介する意欲的な試みです。
東日本大震災以降書き続けられている〈怪物君〉と題されたドローイングのような自筆原稿数百枚のほか、映像、写真、オブジェ、録音した自らの声など様々な作品や資料を一挙公開します。
大友良英(音楽家)とのコラボレーションによるパフォーマンス、ジョナス・メカス(映画監督)作品上映など、イベントも多く開催する本展は、「詩人」の枠を飛び越えた、吉増ならではの多様性あふれる形態で、聴覚・触覚をも刺激する、体感する展覧会です。「言葉」の持つ力、豊かさを体験してください。
…… 「声ノマ」とは
詩人である吉増は、しばしば漢字をカタカナ(音)に置き換えることで、言葉(声)が本来もっていた多義性を回復させます。展覧会タイトルとなっている「声ノマ」の「マ」には、魔、間、真、目、待、蒔、磨、交、舞、摩、増など様々な意味が込められています。
…… 声や音を空間にあふれさせる
会場に入ると、壁をなるべく立てず、布でゆるく仕切った7つの部屋が広がり、声や音が空間にあふれていきます。そしてその奥には、飴屋法水による空間と、パフォーマンスや映像をみせるシアタースペース。計9つのタイプの異なる空間から展覧会は構成されます。
http://www.momat.go.jp/archives/am/exhibition/yoshimasu-gozo/index.htm#section1-2[2016/09/11]
2016/08/22
「伊藤文學コレクション オールド・ロマンーー歴史の小片を掻き集めて」
絵葉書と蔵書票に大きく流行した時期というのがあったことは知らなかった。世界の絵葉書の流行は日本とおよそ時期を同じくしていて、そのきっかけが1900年の国際郵便の開始。1904年の日露戦争を機に戦勝記念絵葉書が販売されて、以降急速に普及したという。政府の政策にも結びつくものだったという点は興味深い。夢二をはじめ、絵葉書にイラストを提供することで小金を稼いでいた画家などもいたとか。
「絵はがき芸術の愉しみ展」というのが過去に開催されているようで、その図録には日本における絵葉書の誕生と変遷が書かれている。オールド・ロマン、歴史の小片。一枚一枚の小さなピースがそれぞれの記憶を留めていて、私たちの前に姿を現しているのだと思うとふしぎな気持ち。
今から約150年前、黒船がやってきて日本に新しい風が吹いた。数多の人が自らの手で未来の設計図を思いのままに描いたロマンティックな時代が訪れた。それからというもの、いくつもの戦争と改革を重ねて社会が変わり、文化は成熟していった。
そのひとときを刻む文字、絵図があった。明治・大正の時代のすがたと熱量を一枚に込めた絵葉書や蔵書票等。これらは量産され、多くの人の手に渡り、未来への高揚感や希望へと結びついていった。こういったロマン溢れる歴史の小片を伊藤文學氏は蒐集した。
オールド・ロマンは自由な時間軸の往来を可能にする。名も知らぬ数多くの物語が込められた一枚からロマンの敷石を辿ると、私たちの生きる現代が見えてくる。
2016/08/12
「犬神左兵衛の密かな愉しみ」「犬神左兵衛の密かな愉しみ 第二章」マリアの心臓(銀座)
マリアの心臓、銀座での二回目の展示。演出、美術を手掛けているのは劇団で、寺山の戯曲「犬神」のときのセットをそのまま利用しているのだそう。
本当に言葉も出ず圧倒されて、移動するたびにため息ばかり。この世界観にはもちろん大原のを訪れてかなり慣れてはいたのだけど、展示数も人形の種類も多く、ここまで気合の入った凄まじい演出だとまた。
一畳くらいの小部屋が4つくらい並び、中央の一番大きな部屋には日本人形からビスクドール、三つ折れ人形、現代日本人形作家の最近の作品までさまざま。勿論、人形だけではなくて絵画や彫刻なども同時に展示されているが、それがひとつのマリアの世界を形づくっている。
「人形」が内包しているありとあらゆる雑多性、そのカオスの演出という点でいったら、それを最も素晴らしく体現できるのは個人的にはやはりマリア以外には有り得ないとあらためて感じた。
第二章も行って、こちらもだいたい第一章のときと同じ。
佐吉さんにも二回とも遭遇。一回は若い女の子とのアルバイトの面接中でした。
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