2016/10/02

『「神は局部に宿る」都築響一 presents エロトピア・ジャパン展』アツコ・バルー








 
 行こうか、行くまいか、さんざん悩んだけど結局会期末近くになって訪問を決意。ひとりでこの類のものに出かけることに対して何も感じないというわけではない。だけど、家が近いし、通りがかりだし、仕方ない。話題性もあるし、ほら、風俗って、都市史とかすごい関係あるし。
 
 秘宝館、ラブドール、ラブホテル…といった内容についての考察は、たまに本が出ていたりするけれど研究書というよりサブカル書のイメージ。専門家の方とかいるのだろうか。ともかくこのテーマの展示が渋谷の立派なギャラリーで開催された、ということには大きな意味があると思う。失われつつあるエロ文化。個性豊かでトンデモなラブホテルたちが風営法の強化によって淘汰されつつあるというように、猥褻なはずのものさえオシャレなものとなりつつあることを嘆くべきなのかどうかは知らない。しかし変わりゆくものとして捉えておくのはだいじな試み、たぶん。地味に波がきているのかもしれない。
 


日本を訪れる外国人観光客は、氾濫する性的イメージにいきなり圧倒される。通りにはみ出す風俗看板に、路傍でチラシを配るメイド少女に、DVD屋のすだれの奥に、コンビニの成人コーナーにあふれ匂い立つセックス。そしてハイウェイ沿いに建つラブホテルの群。

この息づまる性臭に、暴走する妄想に、アートを、建築を、デザインを語る人々はつねに顔を背けてきた。超高級外資系ホテルや貸切離れの高級旅館は存在すら知らなくても、地元のラブホテルを知らないひとはいないだろうに。現代美術館の「ビデオアート」には一生縁がなくても、AVを一本も観たことのない日本人はいないだろうに。そして発情する日本のストリートは、「わけがわからないけど気になってしょうがないもの」だらけなのに。

ラブホテルもイメクラも秘宝館も、その作り手たちは、自分がアートを作ってるなんて、まったく思っていない。彼らが目指すのはただ、自分と受け手の欲望と妄想をもっとも完璧に満足させる装置である。性欲と金銭欲とを両輪にドライブしつづける、そんな彼らのクリエイティヴィティの純度が、いまや美術館を飾るアーティストの「作品」よりもはるかに、僕らの眼とこころに突き刺さってくるのはどういうことだろう。アートじゃないはずのものが、はるかにアーティスティックに見えてしまうのは、なぜなんだろう。

さげすまれ、疎まれることはしばしばでも、敬意を払われることは決してないまま、それらはひそかに生き延び、いつのまにか消えていく。

日出づる国のブラインドサイドに響く、その歌が君には聞こえるだろうか。

都築響一



○展覧会に寄せて 
都築響一の仕事はユニークで筋が通り、とにかく勇敢である。芸術と言う肩書きを持たないが心打つもの、周りからは変人としか見られていないが自分の価値観を曲げずに生きている自由な精神を持つ人達を取材すること何十年。彼のメールマガジンには毎週、紙ページにしたら60ページくらいになるかと思う記事が載せられている。

○隠れた、でも実は有名な日本文化
テーマは「エロ」である。昭和30年生まれの女子である私は躊躇した。男性の飽くなき性欲とか妄想、と言うのは辟易するテーマ(実は不快)である。しかし自分に張り付いた社会の道徳や取り決めを取り払って観察すると、日本の「エロ」は確かに特殊で詩的ともいえる。ラブホやイメクラには物語があり、物語に男性は酔う。実際いやらしいのだが、西洋のそれのように後ろめたく陰湿ではなく遊び心にあふれている。西洋の「エロ」がおぞましい肉と肉のぶつかり合いに終始するのとは全然違うのだ。いかに男性の精神と体が複雑になれるかを表している。日本の「エロ」は文化的で進歩形だと思う。

○神は本当に局部に宿るのか
国や社会は個人を統制する大きな機械である。しかしどんな精巧な機械の下でも、凡庸な個人が自由を味わえる瞬間がある。それは恋愛、セックス(結婚ではなくて)、お酒、ドラッグ、そしてアートによってもたらされる。故にセックスは悪いもので隠れて行われるべきと思われる。しかし上記のものをたしなんでいる時、人は完全に自由な個人として宇宙に存在する事ができる。その瞬間の継続を探るのが哲学であり宗教である。

○なぜ、今「エロ」なのか?
世界が不安である。日本の社会も同様だ。いくら亀のように手足を引っ込めてやり過ごしたくても、私たちは嵐に巻き込まれている。そんな時代が20世紀の初めにもあった。第一次大戦前夜である。戦争に走る世論の中で平和運動に身を投ずる者もいれば、個人の精神と妄想、神秘的な経験に自由を求めた学者や芸術家達もいた。それは現実逃避ではなく、怒濤に飲み込まれない精神の自由を勝ち得る為の手段だった。彼等とは、アールブリュットの作家を取り上げた人たちやユングやシュタイナー*である。しかし、そんな遠い国の昔の文献を読まずとも、我々には運の良い事に都築響一がいる。エロの楽園、エロトピアに遊びにきてください。この名もなき芸術家(?)達の提示する妄想のブレーンストーミングを受ければ、あなたにも社会に惑わされない強いエゴ=エロが出てくるはずです。

*ユングとシュタイナー:2013年のヴェネチアビエンナーレのエントランスを飾った強烈な展示はユングのレッドブック(精神病患者の妄想を彼が絵にした巨大な赤い本)とルドルフ・シュタイナーの黒板(彼の講義中に描いた黒板)、そして女性画家で神秘主義と象徴主義のヒルマ・アフ・クリントなどに続いて澤田真一、大竹伸朗、吉行耕平。という強烈なラインナップで私はそこにはっきりとしたメッセージを感じた。言葉で説明しないと成り立たない現代アートにもう限界を感じているのだ。霊的な物、魂の根源からくるもの、町で拾った紙のスクラップブック、そして覗き写真。あそこに都築響一の秘宝館コレクションは絶対あってよかった。と確信している。皆さんヴェネチアにいると思って下さい。とても運がいいです。飛行機代なしでビエンナーレが見せたかった物が見られますよ。
私にとって今回の展示は2014年の6月に行ったアントワーヌ・ダガタの展覧会『抗体』とメッセージは同じです。ただあの展覧会では皆泣いてしまったが今回は皆さんに笑って欲しいです。

2016年 春 アツコ・バルーhttp://l-amusee.com/atsukobarouh/schedule/2016/0611_3709.php [2016/09/11]

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