2017/06/05

『ミュシャ展』国立新美術館



 ミュシャは私の想像をはるかに超えて「ロマンチスト」だった…。

「スラヴ叙事詩」——文字通り叙事詩なのだろう。私は「聖書」のようだとも思ったが(近代に生まれた「聖書」)、やはりしっくりくるのはそちらか。時代に見合わなかったというのもやむをないと言わざるを得ないような気もする。

想像以上のロマンチストぶりに置いてけぼりになりかけながら、どうにか一周。スラヴ叙事詩の序盤と終盤、絵筆と気分の乗りに乗ってる感じの数点は割とキてるが、面白く見たし結構好きかもしれない。ミュシャという作家に対する自分の心の距離が掴みきれずにいたが、この展示のお蔭でなんとなく定まったような。

明らかに《スラヴ叙事詩》にフォーカスした展示であるにもかかわらず、展示名に副題がないのには何か理由があるのだろうか?

2017/05/22

『草間彌生——わが永遠の魂』国立新美術館




 ミュシャ展の後に訪問。すでにかなりじっくりと鑑賞して若干疲れてしまったため、さらっと見ようということに。

 私自身がミュシャの方にやや冷笑的になってしまっていたのに対して、同行者はこちらの展示になかなか入り込めなかったようだった。知ってはいるつもりでもどんなふうに「やられて」しまうかわからないから、行く前には少しだけ身構えていたけれど、人を隣にしていたおかげで私も心をのめり込ませ過ぎることがなかった。ニキ・ド・サンファル展の時のように、心の泥濘の中へ沈み込んでしまうことも。良くも悪くも…というところか。無事に健全に生還はしたものの、そのぶんじっくりと作品に対峙することもしなかった。
 見慣れたシリーズの作品たちが中心であったから特に「これ!」というのはなかったし、何か大きな感慨を得たわけでもないが、中央の広大な展示空間はやはり圧巻。天井も高くて、久しぶりに美術館という場を存分に満喫したような気もする。

 チケット売り場にも列、グッズのレジ待ち時間は40分。先日オープンしたGINZA SIXにも作品が飾られて話題になっているけれど、草間彌生がなぜこれほどまでに爆発的な人気を集めているのか。ファッションやアートをめぐるビジネスやら様々な要素が絡まり合っているのだろうが、それにしてもいまひとつ、腑に落ちないままである。鑑賞者たちも、グッズの列に並ぶ人たちも、皆、一体何を思ってあの蝟集した男性器たちを眺めているのだろう。


 同行者が私に伝えてくれた感想。草間彌生の表現する作品たちは、「観る者の心の奥底を映す鏡」であって、あれを通して見ているのは草間彌生の心の叫びではなく、ひとりひとりの心の奥底の自分自身の心の声を映像化して見ている不思議な現象だ、と。初めて聞いたけれど、とても面白い見方だと思う。水玉や網目模様は単純な形の際限なき反復で、単純だからこそそこに投影されるのが自分の心の中身。私は草間の作品を見て、そのように感じることはなかったのだけど、なるほど言われてみれば。

2017/05/08

『快楽の館 篠山紀信』原美術館





展示に行って比較的すぐに書いたはずの文章。篠山氏の作品展示にはそのあとでいくつか見る機会があったりして、考えも色々と変わったり納得したりする部分がある。あとあとから読み返したら、自分もガキだな、とおもわず笑ってしまう毒の吐きぶり。でもそんな生々しい感情の表出というのもまあそれはそれでありだと思うので、まるごと掲載してみる。

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 この展示に関しては愚痴にしかならない。入館前に庭の展示を観てからすぐに違和感はあったのだけれど、それが確実に強くなっていき、展示室を2つ3つ回ったあたりで明らかな確信に変わった。

 被写体の女性たちが撮影された状況や取っているポーズは様々で、堂々と均整の取れた肉体美を披露しているもの。AVの表紙のようにこちらに媚を含んだ上目遣いをするもの。複数人で幼児のように無邪気に戯れているもの。

 館内の、ギャラリー内にとどまらず色々な「美女」達の姿を拝めるわけだけど、そのいずれにも共通して感じたことは、女たちの表情があまりにも露骨に性的であり、それが写真家に対してのみ向けられたもの以外の何ものでもないということだった。それはモデルの真正面に立って観者に向けられた視線と対峙したときに強く感じた。写真家自身は「性」から無縁だ、と話しているそうだが、どの口が言えるのだろう?モデルにはあらゆる女性がいるわけだけれど、その女性たちすべてが従事しているのが、いわば性的なアピール以外の何ものでもないように思われた。もちろん撮影をされているモデル本人たちにそのつもりはなかったとしても、そのように自分に奉仕された瞬間を写真家が切り取ってしまうのだから、永遠の構図として固められてしまうのだから、そしてその写真たちはもといた室内空間に貼りつけられてしまうのだから、被写体の意思には全く関係ないこと。

 これらは私の印象でしかないわけだけれど、いくつか作品そのものにもあらわれてしまった証拠のようなものがある。ひとつは共通点として、一糸纏わぬはずのヌードの女性たちが、室内屋外に関係なく唯一身に付けているのが、靴。それもそのほとんどすべてがハイヒールで、10センチを優に越え、線のように細くて不安定。言わずもがなだけれど靴というのはまた女性性を強く表現するものであってあからさまなアイテムである。女性が履くハイヒールと、履かせられたハイヒールとではその意味が大きく変わってしまうことを実感した。

 (コルセットやら首輪やらといったフェティッシュ関連のものも、自ら装着するのと他人から強制されて装着するのとでは全く異なる。同じ「フェティッシュ」や「SM」という枠に括られるものでも意味合いが大きく異なってくるのだということを改めて感じた。「美学」って、とりあえずでも構わないから必要…。)



 それから、今回の展示作品はそのほとんどが女性のヌード写真であるが、数枚の写真のうちに、ヌードの女性に混じって、男性が登場するものがある(原美術館の館長であるらしい)。正装した男性。裸体の女性とそれを眺める着衣の男性という構図はマネの《草上の昼食》を思い起こさせる。肢体を誇らしげに披露する女性の姿に投げ掛ける視線は、露骨な性的な含みを帯びておらず戸惑いさえも覚えているようにも見えるので(最後の部屋にあった女性と男性との視線の交わし合い(交わせていない)は、ちょっと寒気がした)、いっそう厭らしく思えて気持ちが悪い…というのは私自身の趣味の問題だけど。



 総じて、今回の展示のコンセプトはこの原美術館の建築と一体となって生み出された空間であり、空間自体がひとつの作品あったといえるわけだが、残念ながらそれは写真家の性的なエゴイズムが生み出した「幻想」以外の何ものでもない。それも、下らなくて、陳腐な、安っぽいファンタジー。はっきり言って不快だった。初めから美女たちのストリップショーが披露される「快楽“幻想”の館」とか「自慰の館」とでも銘打っているなら構わない。由緒ある建築まるごと活用した、壮大なインスタレーションとしての「自慰の館」。むしろそのほうがよほど好感が持てるし、そうであれば哀しいオジサマを心から応援もしたくなる。

 問題になると感じるのは、それが美術館という場所で、名高い写真家の「芸術(アート?)」として、行われている、ようにみえること…。そもそもこんな程度で「快楽の館」なんて大それたタイトルを付けないでほしい。仮にも日本の稀代の写真家が、あまりに凡庸な欲求をどストレートに表現する…ということがあるのだということは、百歩譲って我慢するし、まあもうおじいさんなわけだし、仕方ないかなと思う。ただ、それって芸術である前に、エゴなんじゃないの。あとは個人的に気に入らないのは「快楽」の内実があまりにもどストレートすぎてつまらないし驚きも衝撃も何も無い。日本の「エロティシズム」もこの程度では、地に墜ちたな、という印象。みっともないというか、情けないというか。

 写真史を勉強しないといけないと強く感じた。ヌード写真でも、自分が快/不快を判断する基準というのがどこにあるのだろう?

『篠山紀信展——写真力』「コレクション展」横浜美術館


 篠山紀信氏の直球のポートレート、という感じか。有名人をぜんぜん知らないので、あれはだれこれはだれ、などと教えてもらいながら鑑賞する。

 コレクション展も、企画展に合わせてすべて写真!とてもよかった。以下の二部構成。

Ⅰ 昭和の肖像 ―写真でたどる「昭和」の人と歴史
Ⅱ “マシン・エイジ”の視覚革命 ―両大戦間の写真と映像




『オルセーのナビ派展』三菱一号館美術館


ナビ派。まとめて見た機会は初めてだろうか。19世紀における室内空間やintimismeの問題など、今更ながら自分の関心領域に関連するものに気づいたり。19世紀末の室内空間という点では、ナビ派をノーマークだったのはいけなかった。2014年に行われたヴァロットン展は行っておくべきだった。

2017/05/07

『茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術』、『マルセル・ブロイヤーの家具』国立近代美術館



 竹橋に用事があったので。もともとはマルセル・ブロイヤー展を目的に訪れたのだけど、もうひとつの企画展の方も興味深くせっかくなのでと入ってみた。茶道の世界、ちらとでも覗いたことがなかったし私に解せるはずもないと思っていたけど、おばさまおじさま方に混ざりながらぼうっと眺める。数を見ていると、全くわからないのがわからないなりになかなか面白くなってくるから不思議。最後の当代吉左衛門の作品は特に、非常に気に入ってしまった。展示のタイトルは別の意味でつけているのだろうけど、15代の作品は、見た目が本当に宇宙のよう。作品のタイトルも、なんだかロマンチック。それまでの落ち着き払った作品たちとのギャップもあって、とても素敵だと感じた。

 マルセル・ブロイヤーの展示は、バウハウスを少しでも勉強してからいくべきだったかもしれない。彼もまた、モダニズムの簡素で洗練されたデザインということで、今回の企画展2つはいずれも装飾の抑圧と排除という点で共通している。私の心はデロリとキッチュの美学を掲げ、その時代に生きてさえいなかった19世紀で止まっているので、モダニズムも「侘び寂び」も圧力をかけてくる敵でしかないと思っていたけれど、装飾を排除するということがいかに難しく高度なことであるかということをしみじみと感じてしまった。装飾を剥ぎ取れば物自体の骨格や物質そのものが包み隠されず露わになる。嘘は吐けないし、誤魔化しも一切きかない。その緊張感、無(とはいえ決して本当に「無」なわけではない)の良さを味わえるようになったというのも、おそらくは年齢のせいだろうか…。

 常設展もしっかり見てしまった。近代美術館の絵画たちは会うたびにどこか心が落ち着く。


茶碗の中の宇宙とは、全ての装飾や美しい形を捨て、手捏ねによる成形でさらに土を削ぎ落としながら造形を完成させていった茶碗を用い、その茶碗によって引き起こされる無限の世界、正しく宇宙のように果てしなく広い有機的空間のことと捉えています。
つまり、一服の茶を点てます。相手は、その茶を飲みます。その行為により二人の関係の全てが茶碗の中を巡ります。その茶碗の中を見つめながらの人間の思いは、他に想像もできないほどの大きく深い意味を有し、まさに宇宙と呼ぶべき無限の世界が広がるのです。
今から450年前、長次郎という人物によって創造された樂茶碗は、一子相伝という形態で現在まで続いています。一子相伝とは、技芸や学問などの秘伝や奥義を、自分の子の一人だけに伝えて、他には秘密にして漏らさないことであり、一子は、文字通り実子でなくても代を継ぐ一人の子であり、相伝とは代々伝えることです。
この様な考え方で、長年制作が続けられている樂焼は、長い伝統を有していますが、しかし、それらは伝統という言葉では片付けられない不連続の連続であるといえます。長次郎からはじまり15代を数える各々の代では、当代が「現代」という中で試行錯誤し創作が続いています。
本展では、現代からの視点で初代長次郎はじめ歴代の「今―現代」を見ることにより一子相伝の中の現代性を考察するものです。正しく伝統や伝承ではない不連続の連続によって生み出された樂焼の芸術をご覧いただけます。


2017/04/02

『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』サントリー美術館



想いの外、とても面白かった。
小田野直武は『解体新書』の扉絵を描いた画家。解剖学の挿絵も担当していたということで、動植物など博物誌系のスケッチも豊富。

日本の伝統、ヨーロッパ、中国大陸といくつかの源流を取り入れた秋田蘭画。日本画の平面性と、西洋画の遠近法や陰影表現、奥行きなどを折衷させた様式はとても新鮮に思われた。流派が廃れてからは忘れられていったそうだが、20世紀に再評価が行われた。当時、西洋絵画が全面的に流入し、日本画独自の表現を模索していたことから需要に合ったものであったという。

気になったのが、「眼鏡絵」というジャンル。遠近法を用いた西欧でいう都市景観画(ヴェドゥータ)。この絵を制作するために用いられたのがどのような装置だったのか知りたい。


個人的には芍薬と牡丹の絵がいくつもあって、その描き方が好み。
白い牡丹が蒼みがかって見えたの!美しかった。



江戸時代半ばの18世紀後半、秋田藩の若き武士たちによって西洋と東洋の美が結びついた珠玉の絵画が描かれました。「秋田藩士が中心に描いた阿陀風(おらんだふう)の絵」ゆえに現在「秋田蘭画」と呼ばれており、その中心的な描き手が、小田野直武(おだのなおたけ・1749~1780)です。本展は直武の画業を特集し、秋田蘭画の謎や魅力を探ります。小田野直武の名を知らずとも、『解体新書(かいたいしんしょ)』の図は誰しも見たことがあるでしょう。直武は、秋田藩の角館(かくのだて)に生まれ、幼い頃より絵を得意としたといわれています。安永2年(1773)に平賀源内(ひらがげんない・1728~1779)が鉱山調査で秋田藩を来訪したことをきっかけとして江戸へ上った直武は、源内のネットワークを通じて蘭学者に出会い、安永3年(1774)に『解体新書』の挿絵を担当しました。江戸では、ヨーロッパの学術や文化を研究する蘭学がまさに勃興し、また、南蘋派(なんぴんは)という中国由来の写実的な画風が流行していました。江戸に出て7年後の安永9年(1780)に数え年32歳で亡くなるまで、直武は西洋と東洋という2つの世界に挑み、東西の美を融合させ、新しい表現を目指したのです。その画風は、第8代秋田藩主の佐竹曙山(さたけしょざん・1748~1785)や角館城代の佐竹義躬(さたけよしみ・1749~1800)らへも波及しました。主に安永年間(1772~1780)という短い制作期間ゆえに現存作品は少ないながらも、実在感のある描写、奥行きのある不思議な空間表現、プルシアンブルーの青空など、秋田蘭画は今なお斬新で驚異に満ちています。本展では、小田野直武、佐竹曙山、佐竹義躬ら秋田蘭画の代表的な絵師を特集します。あわせて、直武に学んだとされる司馬江漢(しばこうかん・1747~1818)が描いた江戸の洋風画などもご紹介します。東京で秋田蘭画と銘打つ展覧会は、2000年に板橋区立美術館で開催された「秋田蘭画~憧憬(あこがれ)の阿蘭陀~」展以来、16年ぶりとなります。当館は、「美を結ぶ。美をひらく。」というミュージアムメッセージを活動の柱としてまいりました。江戸時代に洋の東西の美を結び、そしてひらいた直武らによる、日本絵画史上たぐいまれなる秋田蘭画の精華をご覧ください。 
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_5/ [2017/4/2]


 

ブライス15thアニバーサリーエキジビション『スウィート セレブレーション』、清水真理「Dolls Fantagic Circus」横浜人形の家





横浜人形の家のブライス展と清水真理さんの個展。

ブライス展は歴代のブライスが一堂に会して…という感じで、過去に開催されてきたブライス展とさして大きくは内容が変わらず、目新しい何かがあったわけでもない(気がする)。人形それ自体の展示の機会があるだけで貴重ではあるけれど、タカラトミー以降のブライスの歴史はそれほど深いわけではないし、コンテンツに限界があるというか。
きっとそんな余裕はないのだろうし大人の事情もあるのだろうけど、ヴィンテージになったアメリカ時代のブライスについてはもっと色々知りたいと思う。それが難しければ、愛好家たちの写真のコンテストでもして、その展示があるとかであればまた広がりがあって面白いと思うのだけれど。あとは、カスタムだったり、お針子お裁縫文化だったりもあるわけだし。ドールそれ自体の商品史というより、ドールをめぐる周辺のあれこれにまで射程を広げてもっとカルチャーとしての分析や考察が見られたら面白いのになと思う。

清水真理さんの個展は本当によかった。私の心の共鳴しちゃう子、みっけ。

鈴木理策 「Mirror Portrait」タカ・イシイギャラリー




 生まれて初めて、写真家さんの作品の被写体になりました。以下、自分の感想をFacebookから転載。

不思議な体験だった。このポートレートのシリーズではモデルの前にあるのは一見ただの鏡でモデルから見えているのは自分の姿だけであり、実はその鏡の裏の反対の部屋にカメラがあって秘かに撮影されている、という仕組みが用いられている(所謂マジックミラー)。

見られていることをこちらが完全に知らないのであればそれは単なる窃視であるけれど、向こう側から確実に自分が見られているということを知っていながらもどのように見られているのか、いつシャッターを切られているのか分からないというのも奇妙なものではある。向かい合っているのは自分の顔なのに、本当はその奥に自分を覗いている存在があるということは知ってしまったら意識しないではいられない。鏡の前に立つ恐らく僅か1分程の間、レンズに射竦められる感覚で身が強張ってしまうことはない一方で、自撮りはおろか中高時代からプリクラを撮るのも苦手だった私には(これまでのFBのプロフィール写真だってずっと人形だったし)、目の前の鏡を活用して自分の今日一番の決め顔をしてやるわ、なんて余裕があるはずもなく、どこかずっと気が落ち着かないでいた。 
 
仕上がった写真にあらわれた自分の表情にはそうした戸惑いというか居心地の悪さのようなものを感じている様子がありありと出ているなと苦笑していたのだけど、一緒に展示を見たひとにそれを伝えると、私がとても頻繁にしている表情と仕草だよ、ということを言われる。やっぱり私は普段からなにかしらにソワソワしているみたい…?


自分の写真が展示されていること、そしてそれが値段をつけられて売られていることへの気恥ずかしさと嬉しさと奇妙な感覚が入り混じった状態で展示を眺めることになった。自分以外の方の写真も面白い。それぞれ表情や仕草に特徴があり、素があらわれてしまうというか。撮影者が見えているかのように、あるいは未来に自分のことを眺めてくる鑑賞者に、挑発的に視線を送り返す人もいれば、私のように目線を逸らして戸惑った表情を浮かべている人も。放心しているように見えたり、哀しみを湛えているようだったり。自分自身に酔っているかのような人もあり。

実は、『芸術新潮』にも採用されたので少し嬉しい。思わぬ形で美術雑誌デビュー…。

『花鳥絢爛 刀装 石黒派の世界』刀剣博物館、『月——夜を彩る清けき光』 松濤美術館


■『花鳥絢爛 刀装 石黒派の世界』 刀剣博物館


これほど近所にあって気になってはいたのに、初訪問。日本刀は勿論初心者だけれど、刀というよりもその装飾の展示だったために知識がなくても楽しめた。れっきとした武具であり殺傷のための刃物であるにもかかわらず、美術品として愛でられる。指で刃にそっと触れてなぞりながら、柄や鐔を目でじっくりと撫でてみたい。危うさを秘める煌めきは、鋭くもあり同時に鈍くもあるようで、いつ露わになるとも知れぬそんな暴力性とは無縁にもみえる、絢爛で典雅な装飾たち。用と美との絶妙な均衡?
たぶんその美学の精髄が存分に詰まっているのが、私の中のイメージでは赤江瀑。


■『月——夜を彩る清けき光』 松濤美術館


「月」をテーマにした展示。聞いただけで嬉しくなってしまう…。

2017/04/01

『ティツィアーノとヴェネツィア派展』東京都美術館



 ティツィアーノ。ティツィアーノの描く女性もまた「目」が殊更に美しい。優しく微笑んでいようと、陶酔の表情を浮かべていようと、しっかりと己の意志をもっているひとの眼差し。…のように、私には思える。
 「フローラ」、「ダナエ」がやはり圧巻。フローラの手にしている花は、薔薇・スミレ・ジャスミンだそう。

2017/03/10

銀座〜新橋の展覧会(2017年3月頃?)

この下書きを作った時のことを覚えていないが、たぶんその日にまとめて回った展覧会たちのポスター画像。





2017/03/02

『江戸の絶景——雪月花』太田記念美術館


 江戸時代の絶景を描いた作品、「雪」「月」「花」「山と水辺」「寺社」とテーマごとに展示。広重、北斎、国芳など。太田記念美術館の展示はコンパクトで、さくっと、でもしっかりおいしい。

『ふわふわシナモロール展』松屋銀座


シナモン愛、炸裂。





2017/02/18

『須川まきこ展』『ピエール・モリニエ展』ヴァニラ画廊



 ヴァニラ画廊。須川まきこさん、初めて知ったのだけれど、とってもキュートだった。女の子がみたらきっと誰もが胸きゅんしてしまうだろう。そして作品集も、まっピンクなの!特装版はピンクのボンボン付き。ああ、可愛い…。

 モリニエはいまさら特にコメントすることもないけれど、彼の評伝のタイトルに少し驚く…、『モリニエ、地獄の一生涯』ですって。なんという。

2017/01/10

『杉本博司 ロスト・ヒューマン展』東京都写真美術館



 恵比寿の写真美術館のリニューアルオープン。その展示の第一弾がこの展覧会。事前に評判を少しだけ聞いてはいたけど(「写真」を見に来た人にとっては「写真」が全然ないので肩透かしを食らう、とか)、想像以上にこの展示はちょっといただけないと感じてしまった。とにかく、寒くて、痛々しくて、気恥ずかしい。展示内容はまずメインとなるシリーズがかなり大規模なインスタレーション。展示室内の各スペースに文明の終りに関する33のシナリオがあって、一つ一つのシナリオはある職業の人間が書き残した手記やら日記やらという体を取っているのだけど、「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という出だしで手書きで書かれ(各界のかなりの著名人たちが選ばれている)、そこに描かれたものから想像される状況が様々なものたちのインスタレーションで表現される。
 展示空間が細かく分けられて、それぞれに世界の終り、要するにディストピアが延々と繰り広げられているわけだけど、問題なのはそのどれもがちょっと呆れてしまいそうになるくらいに陳腐で薄っぺらでしかないということ。こんなシナリオはこれまでのSF小説のなかにどれだけありふれて量産されてきただろうというか、素人臭いというか、もはや誰もこんなの使わないのだけど…まさかこれを本気で考えたのかな、と疑わざるを得ない。
 じゃあ仮に、このディストピア観が「ださい」ものであったとしてもよいだろう、しかしではこのシナリオを使うことによって作者は何を言いたいのだろう?…ということもいま一つこちらに伝わってこない。展示のあいさつなどを見る限りでは作者には何か伝えたい、鑑賞者に訴えかけたいらしいことが確実にあるようなのに、それがなんだかあまりはっきりとしない。人類にとって暗く悲惨な将来が訪れることの予言、それを避けるために現在において私たちが何をすべきか?の再考、あるいは単なるペシミスティックな状況を愛好する被虐的な気質なのか。ディストピア的状況だけぽーんとただ列挙されても、こちらとしては「はあ、そうですか」としかならない(私だけ?)。ともかく、この展示の優れた点を見つけるように言われても、私には残念ながら、よく分からなかった。
  
 今回展示されていた他のシリーズのうち、廃墟劇場はとても美しく好きだった。映画を投影されたスクリーンから発される茫漠とした白い光と劇場の荒廃との対比が神々しくもあり、いつまでも見つめていたくなる…。


東京都写真美術館はリニューアル・オープン/総合開館20周年記念として「杉本博司ロスト・ヒューマン」展を開催します。杉本博司は1970年代からニューヨークを拠点とし、〈ジオラマ〉〈劇場〉〈海景〉などの大型カメラを用いた精緻な写真表現で国際的に高い評価を得ているアーティストです。近年は歴史をテーマにした論考に基づく展覧会や、国内外の建築作品を手がけるなど、現代美術や建築、デザイン界等にも多大な影響を与えています。

本展覧会では人類と文明の終焉という壮大なテーマを掲げ、世界初発表となる新シリーズ<廃墟劇場>に加え、本邦初公開<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>、新インスタレーション<仏の海>の3シリーズを2フロアに渡って展示し、作家の世界観、歴史観に迫ります。
展覧会はまず、文明が終わる33のシナリオから始まります。「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という杉本自身のテキストを携え、≪理想主義者≫≪比較宗教学者≫≪宇宙物理学者≫などの遺物と化した歴史や文明についてのインスタレーションを巡り歩きます。これは2014年パレ・ド・トーキョー(パリ)で発表し、好評を博した展覧会を東京ヴァージョンとして新たに制作したもので、自身の作品や蒐集した古美術、化石、書籍、歴史的資料等から構成されます。物語は空想めいていて、時に滑稽ですらあります。しかし、展示物の背負った歴史や背景に気づいた時、私たちがつくりあげてきた文明や認識、現代社会を再考せざるを得なくなるでしょう。

そして、本展覧会で世界初公開となる写真作品<廃墟劇場>を発表します。これは1970年代から制作している<劇場>が発展した新シリーズです。経済のダメージ、映画鑑賞環境の激変などから廃墟と化したアメリカ各地の劇場で、作家自らスクリーンを張り直して映画を投影し、上映一本分の光量で長時間露光した作品です。8×10大型カメラと精度の高いプリント技術によって、朽ち果てていく華やかな室内装飾の隅々までが目前に迫り、この空間が経てきた歴史が密度の高い静謐な時となって甦ります。鮮烈なまでに白く輝くスクリーンは、実は無数の物語の集積であり、写真は時間と光による記録物であるということを改めて気づかせてくれるこれらの作品によって、私たちの意識は文明や歴史の枠組みを超え、時間という概念そのものへと導かれます。その考察は、シリーズ<仏の海>でさらなる深みへ、浄土の世界へと到達します。<仏の海>は10年以上にわたり作家が取り組んできた、京都 蓮華王院本堂(通称、三十三間堂)の千手観音を撮影した作品です。平安末期、末法と呼ばれた時代に建立された仏の姿が、時を超えていま、新インスタレーションとなって甦ります。
人類と文明が遺物となってしまわないために、その行方について、杉本博司の最新作と共に再考する貴重な機会です。ぜひご高覧ください。 
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2565.html[2017/01/10] 

「ヴェルサイユ宮殿≪監修≫ マリー・アントワネット展」


 
 
 マリー・アントワネット展。来場者は女性がほぼ95パーセントくらい。展示の感じはおおむね予想通りだなという感じで、決してつまらないわけではないけど、格別に面白いというわけでもない。原寸大のマリー・アントワネットの私室の空間再現コーナーがあったけど、ヴェルサイユを一度見たことがあるというひとにとってこれも再現度という点では限界があるし…。
 どちらかというこの展示自体というよりも、ヒルズ内のレストランでの展示とのコラボスイーツのほうを楽しみにしていたのだけど、気付いたらなぜかしゅらすこで、肉という肉たちをがっつり食べていた。

『あゝ新宿―スペクタクルとしての都市』展 早稲田大学演劇博物館




 60年代の新宿!ほんとうに、素晴らしいテーマ。展示空間で、タイムスリップをして思いきりあの時代の空気感に浸ることが出来て(生まれていないけど)。
 東京の色々なエリアのなかで新宿は、なんだかんだ自分が強く愛着を抱いている街ではある。 色々な層やタイプの人がいて、雑多で、人も物も溢れてごちゃごちゃしていて、でも歩いている人たちは互いに各々の目的を持っていてすれ違いだけ。「若者の街」の渋谷、ファッションの街としての原宿、のように何か人々の特定の部分に働きかけてそこを目指させるような街の求心力があるというよりも、新宿は仕方ないからここにきている・通過している、という感じで、むしろそれがとても心地が良い。
 60年代というのは新宿にとってもきっとまた特別なものがあるのだろうが、新宿の地に降り積もる歴史を追ってみたいなと思っていたら、どうやら「新宿歴史博物館」なるものがあるらしく、これはぜひとも行かないとならない。


1960年代、新宿は明らかに若者文化の中心だった。紀伊國屋書店、アートシアター新宿文化、蝎座、新宿ピットイン、DIG、風月堂、花園神社、西口広場……。そこには土方巽、三島由紀夫、大島渚、唐十郎、寺山修司、横尾忠則、山下洋輔らさまざまな芸術文化の担い手たちや若者たちが集結し、猥雑でカオス的なエネルギーが渦を巻いていた。新宿という街自体がハプニングを呼び込む一つの劇場、一つのスペクタクル、あるいは一つの祝祭広場を志向していたのだ。では、現在の新宿はどうか。かつてのようなエネルギーに満ち溢れた新宿独自の文化は失われてしまったのだろうか。
本展では、新たに発見された劇団現代人劇場『想い出の日本一萬年』(作:清水邦夫、演出:蜷川幸雄、アートシアター新宿文化、1970)の貴重な舞台映像や大島渚監督『新宿泥棒日記』(1969)の上映をはじめ、写真やポスターなどさまざまな資料から新宿の文化史を辿り直すとともに、新宿の今を検証する。そして磯崎新による幻の新都庁案で提示されていた祝祭広場の思想を手がかりに、祝祭都市新宿の未来像を構想したい。

【磯崎新の新都庁案とは】
 現在の東京都庁舎建設に際して、1986年に行われた指名コンペでは、9つのプランが提案され、そのうち8案は、100mを超す超高層案だった。唯一、磯崎新は、これに真っ向から対立する案を提出。磯崎は、新宿の文化が孕む「闇」の覚醒を画策していたのだ。
 本展では、未来の新宿文化を予言する意図で、展示室一室を使って、1986年に準備された、磯崎新による「東京都新都庁舎のためのプロポーザル」の原本とその全ページ、当時最新だったCAD(computer-aided design)による透視図を展示している。さらに、近年、磯崎新の新都庁舎計画を大胆に再評価したテレビ番組『幻の東京計画〜首都にありえた3つの夢』から、CG映像を上映する。 
http://www.waseda.jp/enpaku/ex/4395/ [2016/09/11]

「人造乙女美術館」ヴァニラ画廊


 
 

オリエント工業のラブドールたちに、ついにお目にかかることが叶った。「人造乙女美術館」。ポスターには「世界で一番、美しい人形。」という意味深なコピー。前回の展示がどうであったかわからないけど、今回の展示では各々のドールが絵画や文学作品(『未來のイヴ』のハダリーとか)からそのモティーフを取ってくるもので、日本美術史家の山下裕二さんが監修し、日本画を再現したドールも。

 話題性もあったからか展示にはそこそこの人がいて、男女比はちょうど半々。年齢層はだいたい20代~50代くらい。

 ドールの感想。見た目はこれまで見た写真から予想していた通り、という感じ。触ることができるドールも用意されていたので、手を握ったり胸を押したりしてみた。触感はかなりしっとり、ぺたぺたしていて独特。人間の肌のすべすべとした触り具合とは大きく異なる。これはこういうものだとみないとならないかもしれない。
 一応は現実の女性の代替として、これを現実の女性と完全に置き換えて想像する、というのが想定された使い方だとおもうのだけど、このラブドールのファンの一部には、彼女が「ドール」だからこそ欲情する、という方が大きいのかもしれない。それは一種の「倒錯」の部類。生の無い対象。ネクロフィリアと人形愛の狭間。

 気になった点としては、オリエント工業のドールたちとは、私たちは決して目が合うことがないということ。人形たちはそもそも正面は向いていないし、目を合わせようと顔を覗き込んでもなかなか合わせることができない。すべてのドールがそうであったから、おそらくそれは意図的なもので、「恥らい」的なものの演出なのか。




 今回展示されていたドールたちは「展覧会」向けに制作されているということもあって、やはり通常販売している商品の女の子たちとは違う。重要な「用途」のひとつである性器の部分は隠されているし、第一お洋服を着ていて、大きな着せ替え人形かマヌカンといったところ。
 
 あえてそのようにしているのは、販売者側のイメージ操作の問題(いやらしくない、美術作品のよう、本物の女性みたい)というのがあるのはもちろんあるとは思うが、他には倫理的な問題云々もあるかもしれない、とも思った。
 男性がプライベートな空間においてあくまでも「リアル」と同じように扱う女性である、すなわちヒトガタにおいて「人」という性質を最大限に見てとっている。ラブドールという「人形」においては、「人間の代理」という役割が何よりも大事。

 それを女性側の視点から考えるならば、本物の女性と同じものである以上は、人前で破廉恥な恰好はさせられない、とか。ドールに一応の敬意を払っているということ。
 また男性側からしたら、自分たちの親密な関係性を結ぶ「女性」とその間の関係性を見世物のように鑑賞者たちに面白がられるというのは気分の良いものではないだろうから、そのあたりの会社側の配慮も多分にあるだろう。

 ただ、どれほどそれらしさを消そうとするとしても、展示されているのは紛れもなくラブドールであってダッチワイフであって、私たちはそのドールの精巧さときれいさとに感心してしまうけれども、良く考えれば実際に男性が「使用」しているさまというのは全く想像もさせない空気というのは逆に妙なものである。
 ともかく、今回の「人造乙女美術館」で展示されていた彼女たちには少なからず「よそ向き」という印象があった。本当のラブドール「らしさ」を感じるためにはやはりショールームへと出向くことが必要かも。


 



人形でありながら生活に密接し、社会性を持ち、何より愛を受けるために創られた「ラブドール」という存在。オリエント工業製のラブドールは、女性の似姿の中で最も愛を受ける形を極限まで追求した職人技術と、 「人と関わり合いを持つ人形」を制作するという志の結晶ともいえるでしょう。

ヴァニラ画廊では過去4度にわたり、オリエント工業の協力の元、不気味の谷を一足飛びで跳躍するラブドールの魅力の系譜を辿り、人形の新たな側面を異なる角度から見つめてきました。

今回は特別に、美術評論家の山下裕二氏監修のもと、日本画家・池永康晟の美人画をラブドールで完全再現し、ドールの持つ美しさと美術表現の新たな魅力と可能性に迫ります。
また、他にも絵画の中から再現した美女たち、近未来を予感させる最新ドールインスタレーションなどを展示予定です。 人には宿ることのない不思議な魅力を持った、最も美しいドールたちの魅力を是非ご覧ください。

http://www.vanilla-gallery.com/archives/2016/20160425ab.html [2016/5/31]

『大妖怪展――土偶から妖怪ウォッチまで』、『伊藤晴雨幽霊画展』江戸東京博物館



 
 
 妖怪の夏、にしようと決めていた――わけではなかったけど、今年は結果的に例年よりも多くの時間、妖怪に想いを巡らせる夏になっていた。それもこの大妖怪展の開催というきっかけが大きかったかもしれない。毎年夏には何らかの妖怪系の展示や雑誌の特集が組まれることは近年特に定番になりつつあるが、その対象としていたのはどちらかといえば比較的もとから「こっち系」が好きな人がほとんどだったのに対して、この大妖怪展と、おそらくこれに合わせてユリイカが思い切り「ニッポンの妖怪文化」と来たのはかなり大きい。ユリイカ、迷わず購入したけれど、京極氏と小松先生のインタビュー、各々の論考も多方面の研究者の方によるもので、文学と美術と民俗学と比較文化…と実に充実している。多様な領域からアプローチが可能な妖怪、本当に愛おしい。永久保存版ではないかしら。
 
 大妖怪展は開催の告知を見てからはずっと楽しみにしていて、ただすでにこれほど多くの場所で語られている「妖怪」を取り上げてどれほどの新奇性が出せるかというところも、テーマが大きすぎるためにどのような切り口で構成し展開していくかどうかも難しい問題だと思うので、正直どれほど期待ができるのかという不安もあった。大体、「大」なんて、みずからハードルをあげるようなことをして…。
 だが良い意味で予想を裏切ってくれた。私自身、妖怪関連の言説をすべて追うことができているわけではまったくないが、ある程度の妖怪好きとしてもこれまで見たことのないような類の絵がいくつもあり満足だった。
 もちろん「大」とつくからにはもっとあらゆる絵画や史料が膨大にあるのが理想だし、あれもないこれもない、というのは見つかるし、最後の妖怪ウォッチは“取って付けた感”しかないし、全体的にかなり駆け足になっている感じは否めないけれど、そもそも妖怪なんていうものを全部網羅することなんて不可能。だからコンパクトという意味で肯定的に捉えてしまって良いのかな。マニアの人からしたら色々と文句はあるのかもしれないが、何か決定的な過不足や偏りをすぐに指摘できるほどに、妖怪に詳しいわけではない…。
 
 
 大妖怪展はメインではあったけれど、もうひとつの今回の大事なお目当てが、伊藤晴雨。まさかあの晴雨と、夏休みファミリー子ども向けの妖怪展を同時開催なんて…と知った時には驚いたけど杞憂でした。言うまでもなく晴雨といえば責め絵、というイメージが定着してしまっているように、私も彼には20禁の和製フェティッシュSM画家、という印象ばかり抱いていた。それはそれで大いによろしくはあるのだが、あれほどに強烈な絵を描く人が、今にも消えいってしまいそうな幽玄の美を表現することのできる画家であったとは知らなかった。案外にも融通の利く人なのだ…。
 けれど、ただの薄ぼんやりとした幽霊の絵、というのとは違って、けしておどろおどろしいわけではないのに、一体一体の幽霊たちは生き生きと(?)していて、どこか凄みを感じさせるところがある。どうも強く惹きつけられてしまった。画集が欲しかったな。
 

 妖怪は、日本人が古くから抱いてきた、異界への恐れ、不安感、また〝身近なもの〟を慈しむ心が造形化されたものです。「百鬼夜行絵巻」(ひゃっきやぎょうえまき)などに描かれた妖怪たちの姿は、一見すると不気味ながら、実に愛らしさにあふれています。

 日本絵画史上、異界の生き物としての「鬼」や「化け物」が登場するのは平安時代の末期、12世紀とされます。たとえば、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、邪気を退治する神々を描いた国宝「辟邪絵」(へきじゃえ)や、国宝「六道絵」(ろくどうえ)に地獄の様相があらわされ、鬼が数多く登場します。これらが妖怪誕生のイメージ・ソースとなります。中世に入ると、いよいよ妖怪の登場です。気弱そうで同情を引く顔つきの妖怪が登場する重要文化財「土蜘蛛草紙絵巻」(つちぐもそうしえまき)や、古道具を妖怪化させて物の大切さを説く「付喪神絵巻」(つくもがみえまき)など、親しみやすさが色濃くなります。さらには、コミカルな鬼たちが京を闊歩する室町時代の重要文化財「百鬼夜行絵巻」や、江戸時代では葛飾北斎「百物語」や歌川国芳「相馬の古内裏」(そうまのふるだいり)などの作品が、後世に大きな影響を与えました。

 本展では、古くから日本で愛されてきた妖怪、すなわち〝異界への畏れの形〟の表現の展開を、縄文時代の土偶から、平安・鎌倉時代の地獄絵、中世の絵巻、江戸時代の浮世絵、そして現代の「妖怪ウォッチ」まで、国宝・重要文化財を含む一級の美術品で紹介します。民俗学にかたよりがちだった従来の妖怪展とは一線を画す美術史学からみた〝妖怪展の決定版〟です。 
https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ [2016/09/11]