2017/05/07

『茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術』、『マルセル・ブロイヤーの家具』国立近代美術館



 竹橋に用事があったので。もともとはマルセル・ブロイヤー展を目的に訪れたのだけど、もうひとつの企画展の方も興味深くせっかくなのでと入ってみた。茶道の世界、ちらとでも覗いたことがなかったし私に解せるはずもないと思っていたけど、おばさまおじさま方に混ざりながらぼうっと眺める。数を見ていると、全くわからないのがわからないなりになかなか面白くなってくるから不思議。最後の当代吉左衛門の作品は特に、非常に気に入ってしまった。展示のタイトルは別の意味でつけているのだろうけど、15代の作品は、見た目が本当に宇宙のよう。作品のタイトルも、なんだかロマンチック。それまでの落ち着き払った作品たちとのギャップもあって、とても素敵だと感じた。

 マルセル・ブロイヤーの展示は、バウハウスを少しでも勉強してからいくべきだったかもしれない。彼もまた、モダニズムの簡素で洗練されたデザインということで、今回の企画展2つはいずれも装飾の抑圧と排除という点で共通している。私の心はデロリとキッチュの美学を掲げ、その時代に生きてさえいなかった19世紀で止まっているので、モダニズムも「侘び寂び」も圧力をかけてくる敵でしかないと思っていたけれど、装飾を排除するということがいかに難しく高度なことであるかということをしみじみと感じてしまった。装飾を剥ぎ取れば物自体の骨格や物質そのものが包み隠されず露わになる。嘘は吐けないし、誤魔化しも一切きかない。その緊張感、無(とはいえ決して本当に「無」なわけではない)の良さを味わえるようになったというのも、おそらくは年齢のせいだろうか…。

 常設展もしっかり見てしまった。近代美術館の絵画たちは会うたびにどこか心が落ち着く。


茶碗の中の宇宙とは、全ての装飾や美しい形を捨て、手捏ねによる成形でさらに土を削ぎ落としながら造形を完成させていった茶碗を用い、その茶碗によって引き起こされる無限の世界、正しく宇宙のように果てしなく広い有機的空間のことと捉えています。
つまり、一服の茶を点てます。相手は、その茶を飲みます。その行為により二人の関係の全てが茶碗の中を巡ります。その茶碗の中を見つめながらの人間の思いは、他に想像もできないほどの大きく深い意味を有し、まさに宇宙と呼ぶべき無限の世界が広がるのです。
今から450年前、長次郎という人物によって創造された樂茶碗は、一子相伝という形態で現在まで続いています。一子相伝とは、技芸や学問などの秘伝や奥義を、自分の子の一人だけに伝えて、他には秘密にして漏らさないことであり、一子は、文字通り実子でなくても代を継ぐ一人の子であり、相伝とは代々伝えることです。
この様な考え方で、長年制作が続けられている樂焼は、長い伝統を有していますが、しかし、それらは伝統という言葉では片付けられない不連続の連続であるといえます。長次郎からはじまり15代を数える各々の代では、当代が「現代」という中で試行錯誤し創作が続いています。
本展では、現代からの視点で初代長次郎はじめ歴代の「今―現代」を見ることにより一子相伝の中の現代性を考察するものです。正しく伝統や伝承ではない不連続の連続によって生み出された樂焼の芸術をご覧いただけます。


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