2017/05/08

『快楽の館 篠山紀信』原美術館





展示に行って比較的すぐに書いたはずの文章。篠山氏の作品展示にはそのあとでいくつか見る機会があったりして、考えも色々と変わったり納得したりする部分がある。あとあとから読み返したら、自分もガキだな、とおもわず笑ってしまう毒の吐きぶり。でもそんな生々しい感情の表出というのもまあそれはそれでありだと思うので、まるごと掲載してみる。

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 この展示に関しては愚痴にしかならない。入館前に庭の展示を観てからすぐに違和感はあったのだけれど、それが確実に強くなっていき、展示室を2つ3つ回ったあたりで明らかな確信に変わった。

 被写体の女性たちが撮影された状況や取っているポーズは様々で、堂々と均整の取れた肉体美を披露しているもの。AVの表紙のようにこちらに媚を含んだ上目遣いをするもの。複数人で幼児のように無邪気に戯れているもの。

 館内の、ギャラリー内にとどまらず色々な「美女」達の姿を拝めるわけだけど、そのいずれにも共通して感じたことは、女たちの表情があまりにも露骨に性的であり、それが写真家に対してのみ向けられたもの以外の何ものでもないということだった。それはモデルの真正面に立って観者に向けられた視線と対峙したときに強く感じた。写真家自身は「性」から無縁だ、と話しているそうだが、どの口が言えるのだろう?モデルにはあらゆる女性がいるわけだけれど、その女性たちすべてが従事しているのが、いわば性的なアピール以外の何ものでもないように思われた。もちろん撮影をされているモデル本人たちにそのつもりはなかったとしても、そのように自分に奉仕された瞬間を写真家が切り取ってしまうのだから、永遠の構図として固められてしまうのだから、そしてその写真たちはもといた室内空間に貼りつけられてしまうのだから、被写体の意思には全く関係ないこと。

 これらは私の印象でしかないわけだけれど、いくつか作品そのものにもあらわれてしまった証拠のようなものがある。ひとつは共通点として、一糸纏わぬはずのヌードの女性たちが、室内屋外に関係なく唯一身に付けているのが、靴。それもそのほとんどすべてがハイヒールで、10センチを優に越え、線のように細くて不安定。言わずもがなだけれど靴というのはまた女性性を強く表現するものであってあからさまなアイテムである。女性が履くハイヒールと、履かせられたハイヒールとではその意味が大きく変わってしまうことを実感した。

 (コルセットやら首輪やらといったフェティッシュ関連のものも、自ら装着するのと他人から強制されて装着するのとでは全く異なる。同じ「フェティッシュ」や「SM」という枠に括られるものでも意味合いが大きく異なってくるのだということを改めて感じた。「美学」って、とりあえずでも構わないから必要…。)



 それから、今回の展示作品はそのほとんどが女性のヌード写真であるが、数枚の写真のうちに、ヌードの女性に混じって、男性が登場するものがある(原美術館の館長であるらしい)。正装した男性。裸体の女性とそれを眺める着衣の男性という構図はマネの《草上の昼食》を思い起こさせる。肢体を誇らしげに披露する女性の姿に投げ掛ける視線は、露骨な性的な含みを帯びておらず戸惑いさえも覚えているようにも見えるので(最後の部屋にあった女性と男性との視線の交わし合い(交わせていない)は、ちょっと寒気がした)、いっそう厭らしく思えて気持ちが悪い…というのは私自身の趣味の問題だけど。



 総じて、今回の展示のコンセプトはこの原美術館の建築と一体となって生み出された空間であり、空間自体がひとつの作品あったといえるわけだが、残念ながらそれは写真家の性的なエゴイズムが生み出した「幻想」以外の何ものでもない。それも、下らなくて、陳腐な、安っぽいファンタジー。はっきり言って不快だった。初めから美女たちのストリップショーが披露される「快楽“幻想”の館」とか「自慰の館」とでも銘打っているなら構わない。由緒ある建築まるごと活用した、壮大なインスタレーションとしての「自慰の館」。むしろそのほうがよほど好感が持てるし、そうであれば哀しいオジサマを心から応援もしたくなる。

 問題になると感じるのは、それが美術館という場所で、名高い写真家の「芸術(アート?)」として、行われている、ようにみえること…。そもそもこんな程度で「快楽の館」なんて大それたタイトルを付けないでほしい。仮にも日本の稀代の写真家が、あまりに凡庸な欲求をどストレートに表現する…ということがあるのだということは、百歩譲って我慢するし、まあもうおじいさんなわけだし、仕方ないかなと思う。ただ、それって芸術である前に、エゴなんじゃないの。あとは個人的に気に入らないのは「快楽」の内実があまりにもどストレートすぎてつまらないし驚きも衝撃も何も無い。日本の「エロティシズム」もこの程度では、地に墜ちたな、という印象。みっともないというか、情けないというか。

 写真史を勉強しないといけないと強く感じた。ヌード写真でも、自分が快/不快を判断する基準というのがどこにあるのだろう?

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