2017/04/02

『世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画』サントリー美術館



想いの外、とても面白かった。
小田野直武は『解体新書』の扉絵を描いた画家。解剖学の挿絵も担当していたということで、動植物など博物誌系のスケッチも豊富。

日本の伝統、ヨーロッパ、中国大陸といくつかの源流を取り入れた秋田蘭画。日本画の平面性と、西洋画の遠近法や陰影表現、奥行きなどを折衷させた様式はとても新鮮に思われた。流派が廃れてからは忘れられていったそうだが、20世紀に再評価が行われた。当時、西洋絵画が全面的に流入し、日本画独自の表現を模索していたことから需要に合ったものであったという。

気になったのが、「眼鏡絵」というジャンル。遠近法を用いた西欧でいう都市景観画(ヴェドゥータ)。この絵を制作するために用いられたのがどのような装置だったのか知りたい。


個人的には芍薬と牡丹の絵がいくつもあって、その描き方が好み。
白い牡丹が蒼みがかって見えたの!美しかった。



江戸時代半ばの18世紀後半、秋田藩の若き武士たちによって西洋と東洋の美が結びついた珠玉の絵画が描かれました。「秋田藩士が中心に描いた阿陀風(おらんだふう)の絵」ゆえに現在「秋田蘭画」と呼ばれており、その中心的な描き手が、小田野直武(おだのなおたけ・1749~1780)です。本展は直武の画業を特集し、秋田蘭画の謎や魅力を探ります。小田野直武の名を知らずとも、『解体新書(かいたいしんしょ)』の図は誰しも見たことがあるでしょう。直武は、秋田藩の角館(かくのだて)に生まれ、幼い頃より絵を得意としたといわれています。安永2年(1773)に平賀源内(ひらがげんない・1728~1779)が鉱山調査で秋田藩を来訪したことをきっかけとして江戸へ上った直武は、源内のネットワークを通じて蘭学者に出会い、安永3年(1774)に『解体新書』の挿絵を担当しました。江戸では、ヨーロッパの学術や文化を研究する蘭学がまさに勃興し、また、南蘋派(なんぴんは)という中国由来の写実的な画風が流行していました。江戸に出て7年後の安永9年(1780)に数え年32歳で亡くなるまで、直武は西洋と東洋という2つの世界に挑み、東西の美を融合させ、新しい表現を目指したのです。その画風は、第8代秋田藩主の佐竹曙山(さたけしょざん・1748~1785)や角館城代の佐竹義躬(さたけよしみ・1749~1800)らへも波及しました。主に安永年間(1772~1780)という短い制作期間ゆえに現存作品は少ないながらも、実在感のある描写、奥行きのある不思議な空間表現、プルシアンブルーの青空など、秋田蘭画は今なお斬新で驚異に満ちています。本展では、小田野直武、佐竹曙山、佐竹義躬ら秋田蘭画の代表的な絵師を特集します。あわせて、直武に学んだとされる司馬江漢(しばこうかん・1747~1818)が描いた江戸の洋風画などもご紹介します。東京で秋田蘭画と銘打つ展覧会は、2000年に板橋区立美術館で開催された「秋田蘭画~憧憬(あこがれ)の阿蘭陀~」展以来、16年ぶりとなります。当館は、「美を結ぶ。美をひらく。」というミュージアムメッセージを活動の柱としてまいりました。江戸時代に洋の東西の美を結び、そしてひらいた直武らによる、日本絵画史上たぐいまれなる秋田蘭画の精華をご覧ください。 
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2016_5/ [2017/4/2]


 

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