2016/09/17

矢川澄子『おにいちゃん――回想の澁澤龍彦』(筑摩書房、1995)

 あとほんの数年くらい前に出逢っていたなら、まともに影響を受けていたのではないかと思う。数か月前にこれを初めて読んだ時、しばらく塞ぎ込んでしまうくらい打撃を食らってしまったと同時に、あまりのナイーヴさとナルシシズム、自己正当化、美化ぶりに空恐ろしくなり、嫌悪感を覚えた。数年前の私にとってみれば彼女はもしかすると「お姉さま」になり得ていただろう。今はもう、彼女に対して授けられた「不滅の少女」という言葉の響きに含まれる棘にまったく無関心ではいられなくなってしまった。それもただ私自身が、気付いたときには彼女のような「少女」観を頑なに有していて、いまもなお引き摺るばかり、紙一重であるという自覚があるがゆえに、過敏であるだけかもしれないのだけれど。



    「少年と、少女と、幾冊かの本の話」

――むかしむかし、ひとりの少女とひとりの少年がなかよくなって、いっしょに暮しはじめました。二人のあいだにはやがて、幾冊かの本が生れました。

――しかたありません。でも結局そういうことだったのでしょう。朽木の匂うしめっぽい川端の借家の、破れ畳の上に三笠織をしきつめた二階の八畳一間で、戸外の星辰のめぐりにも関わりなく夜昼さかさまに明け暮れていた少年と少女、身籠った生命はかたっぱしから水に流してしまう常識外れの不遜な男女に、神様は、それならというわけで、いかにもこの二人にふさわしい子種を授けてくださった。それが、本、だったのです。

――二人で熱中していつくしみ育てても、けして邪魔にはならない、おとなしい子供。親を裏切らぬばかりか、世の中へすすんで出ていって、お金とそしてあらたな友人を親たちにもたらしてくれる、健気なたのもしい子供たち――

――けものの猥雑さからは能うかぎり遠い、いわば上質のコットン紙のそれのような陰翳ゆたかな温もりのなかで、まぐわっていたのはもともと二つの貧弱な肉体ではなくて、二つの頭とこころ、いえ、むしろ少年と少女の二つの魂そのものだったかもしれません。でなければどうしてあんなに愛くるしい子供たちが胚胎してくれたものか。

――そう、子供であってくれたのは、とすればやはり本ではなくて、むしろ少年自身だったのでしょうか。母の手を独占しようとする頑是ない子供です。このひとならば何をしようとゆるしてくれるという安心感のもとに、自分のすべてを委ねきってしまう身勝手な子供。およそ子供であることの美点と欠点のすべてを少年は十分にのこしてもいました。のこしていたというより、それはもしかして幼年期に果しそこねた夢のひそかな実現だったかもしれません。
 大人になるということは、幼児の理想の実現でなくて何でしょう。長男として生まれ、つづいて生まれてきた妹たちのために不本意にも母の手を独り占めできなかった子供が、長じて自分の妻の中にその理想的な代替をもとめようとする、これもまた、考えてみればそれこそむかしむかしから繰返されてきた男と女のありようの、あまりにも真当な反復にすぎなかったような気もするのですけれど。


――しかたありません。少年が当時、はたして何を思い、何を考えていたか、いまとなってはたしかめるすべもなく、すべては少女のゆがんだ脳髄の、幻想の産物かもしれないのですから。
 そう、そんなこと、いまとなってはどうでもよいのです。故人もかねて好んでいっていた通り、すべてはただ夢にすぎないのでしょう。わたくしもただ、わたくしなりにその時その時の夢に生きてきただけです。
 それにしてもたのしい夢でした。むかしむかし、ひとりの少年にあやつられ、少女の見せてもらったその夢は。
 あれほど充ち足りた夢はあとにもさきにもありませんでした。恍惚として少女は夢に身をゆだねました。尽すよろこび、頼られるよろこび、自分を十全に役立ててもらうよろこび。およそ女としての素朴なよろこびのすべてがそこにはこめられていたのです。――ただひとつ、身二つになるという体験をのぞいては。でもそんなことが人と人との関わりにどれほどの意味をもつことか。
 

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