2015/05/06

『山口小夜子 未来を着る人』展 東京都現代美術館

 周囲に人を引き寄せて離さない人というのがいる。砂鉄を集める磁石のように。蝶を招き寄せる花々のように。仮にひとりでいても、周りが放っておくことがない。山口小夜子もおそらく、そうした奇特な性質を持つ類のひとりだったろう。



 モデルとしての仕事のみならず、演劇、ダンス、音楽、その他さまざまなパフォーマンスも精力的に取り組んでいた。そのなかには実験的なものも多く、今回の展示ではそうした小夜子のパフォーマーとしての魅力も存分に押し出している。
 彼女がこれほどまでに人を魅惑してやまないのは、単に優美な肢体と、西洋人をも虜にしたというそのオリエンタルな顔つきといった、容姿の要素だけにとどまらないだろう。整った容姿を持つ者であれば世の中には腐るほどいる。

 異論があることは承知だが、ファッションモデルとはマネキンが人間の動きをしたものともいえるんじゃないかと、よく考えてしまう。もし技術が発達して、美女アンドロイドにランウェイを「モデル歩き」させるようにプログラムできるようになったなら、もはや人間のモデルは必要とされない、ということもありえるのではなかろうか…というのは極端ではあるが、あながち突飛な発想というわけでもない気がする。服を纏って舞台の上を歩くことのできる美しいカラダが存在するのなら、それがコンピュータ制御によるものだとしても同じことだ。その時にはもはや人間という生身の肉体が取って代わられる。
 あるいはロボットを考えなくても、ファッションモデルという存在を、すでに私たちは人形的なものとして眺めているとはいえないか。ファッションショー、コレクションの発表においてはあくまでも主役は纏われている服でありそれを着る身体ではない。モデルが誰であるかは多くの場合、問題とならない。むしろ衣装を際立たせるためにも、着る者の内面などというものはなるべく押し殺さなくてはならないのではないか。引き立て役に徹し、自身が目立ってはならない。だからモデルは通常は、ある頃合いを過ぎたら引退することになるし、新たな若いモデルをと次々と求められてゆく。もちろん特定のファンがつくことなどもあるだろうが、あくまでも一般の人にとってみれば、ファッションショーを見るときにモデルが誰であるかを知ることは第一に優先すべきことではないはずだ。

 では小夜子の場合はどうか。彼女が仮にアンドロイドであったなら、あるいは人形としてしか見られていなかったなら、このように固有名詞がひとつのジャンルとして確立し、回顧展までが開かれるなどということはまず有り得ないだろう(それも数百年後の未来にはカリスマアイドルロボットみたいなのが現れているかもしれないけれど)。

 そんなロボットには現時点でおそらく不可能な彼女の魅力とは何なのだろう。ここまで色々と書いておいて答えになっていない答えではあるが、つまりは彼女の内面、その強烈な個性というものに由来することは間違いない。一体どこから湧き出てくるのか、ディスプレイ越しにでも、つたわってくるのは彼女が自らのうちに抱えるエネルギーのような何かである。というよりもそれこそが、彼女という存在を異様な魅力で満たす要素であったのだろう。それは肉体の微細な動きにまで反映される。一挙一動が、隙なく、指先まで、それでいてしなやかで――。
 その効果は彼女に着られた衣装を見ることによっても一目瞭然である。不要であるはずの内面を、個性を、「小夜子」という固有名詞を、こんなにも表出しておきながら、彼女は衣装を駄目にはしていない。むしろ逆である。自分の個性と自らから溢れだしてくる何かをうまく融合させることによって、纏われる衣装がこんなにも生き生きとし、それ自体に魅力を孕むものなのか。山本寛斎のショーに小夜子が不可欠であったとされた理由が分かるような気がした。





 この人の身体とは一体何物なのか。彼女の、こういってしまえば存在意義は、多くの人々にとっては「モデル」として認知されており、私たちは彼女のことをあくまでもその「肉体」としての役割しか知ることはなかった。今のようにインターネットも発達していなかったこともあり、多くの人々には「テレビで見かけるきれいな東洋風のモデルさん」くらいの認識しかなく、彼女の活動的な側面はあまり認知されることがなかった。このように肉体としての意味においてしか認知されることがないというのは、彼女の徹底して受動的な人形性を示している。他方で、指示されたポーズに彼女なりの表現が含められるとき、あるいは演者としてパフォーマー、役者として「小夜子」を発揮するときに、彼女の能動的な側面が突如現れ、彼女の肉体が壮絶なエネルギーを発現する役割を果たしていることを示すかのようにも見える。いずれにしても彼女はそのことによって結局、数え切れぬほどのひとびとの視線を一身に引き受ける者であった。
 主体性と客体性という両極が交錯し融合した場となった肉体、壮絶なまでのエネルギーの器としてあった肉体を持つ小夜子という人間の生とは、一体何だったのだろう。
 ウェアリスト。彼女はそのような言葉で自らを称していたという。肉体とは、身体とは何なのか、纏うこととは何なのか、あらためて考え直さずにはいられない展示だった。
 
 それから私が個人的に心を奪われたのは彼女の声であった。展示室にはいくつか映像作品もあり、そのうちで山口小夜子本人が語りを披露しているものも存在する。彼女の朗読の声は凛と張り、心を沈静させると同時に粟立たせる。奇妙なことにアンドロイドから発せられる金属的な声音のように感じてしまったのは偏った先入観があるせいだろうか。モデルでの仕事では通常、声を出すことはなく、朗読などのパフォーマンスにあたって初めて声という要素が登場する。人造美女における声という概念を論じている書籍もあるが、彼女において声とは何だったのか。



 また会場には、等身大の人形や、小夜子の顔をかたどったマスクを用いた映像なども展示されていた。そうして写し取られて複製されてゆく「小夜子の型」。これには彼女の肉体が持っていた霊性のようなものは失われてしまっているのだろうか。しかし逆に言えばこのようにひとびとによって模られて再現されるということは小夜子がいかに強烈なそうしたアウラ的なものをもっていたかということを示すことともいえる。
こうしたさまざまな要素において、人間の女の身体というさまざまなものについての面白い視点が得られたという気がする。この記事において自分でも何を言っているかぜんぜんよくわからないし、現段階ではとても考えがまとまらない。人形や人造美女、少女性といった観点も含めて興味深い……。

 とはいえ、この展覧会を通じてあれやこれやと妄想を巡らせたところで、私たちが見るのはあくまでも私たちが彼女に投影する彼女「像」以外の何物でもない。彼女のほんとの姿(そんなものがあるのなら)など誰だって知る由もない。ただひたすらに、彼女の存在という圧倒的な美の前に立ち眩んで魅惑されて(場合によっては私のように崇めたてまつる)ことこそが、この展覧会の醍醐味であるのだと思う。

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