冒頭のナレーションで舞台となる設定の設定を知らされるのみであり、ストーリーはほとんど存在しない。セリフを追おうとしても、断片的で脈絡は無く、何を言っているのか、かろうじて登場人物の役割と人間関係が把握できるかもしれないという程度。(私の認識力が足りないだけかもしれなくはある。というか、事前にHPのストーリーをもっとよく読んでおけばよかった。)
つまり、いまこの瞬間にこの映画の中で何が起きているのか分からないまま、ただひたすら時間が過ぎてゆく。それがフィルムの最後までひたすらに延々と、177分間。通常であればそんなふうに内容の理解できない作品など退屈で、途中で睡魔に襲われることもあるかもしれない。しかしにもかかわらず観客たちに一瞬も目を離させず、吸い寄せられるように凝視させてしまうのが、この作品のまさに恐ろしく、おぞましい魅力であるだろう。その理由は何なのか言葉で語ることは、私などには到底不可能である。
この映画について論ずることのできる観点というのは数限りなくあるのかもしれないが、ひとつ考えてみるとするなら、地球より800年遅れた人間の住む惑星という設定にみられるアナクロニスムと、映像のモノクロームという表現手段に関してだろうか。いつかもう一度くらい観る機会があったときには考えてみたい。
アレクセイ・ゲルマンはロシアの監督ということで、やはりロシアという国の風土・文化が深く根ざしているのは間違いないだろう。ひどく直感的な見方ではあるが。タルコフスキーなどロシア映画はこれまで全く観賞したことが無かったために較べることはできないが、本作品は私が外交史の文献やら文学の乏しい知識などを通じて勝手にロシアという国についてつくりあげてしまったイメージに沿うものだった。
どうでもよいことだけれど、この作品を鑑賞したユーロ・スペースという映画館があるのは渋谷の円山町の、いわゆるピンクなご休憩施設がたくさん集まっている場所で、私もかつてはけがらわしいものを眺めるかのように忌避していた場所である。だがこの映画を鑑賞した後にこの通りをふらふらと歩き、看板の派手さと宿泊代の安さを競い合う文字を眺め、ああこの通りで今まさに、そんな人間のケガラワシイ下卑た欲望が数多く渦巻いているのだなぁと想像するのもなかなか乙であった(、という錯覚に囚われた)。下品で汚くて忌避すべきはずのものが、なぜか不思議と心地好く愛おしく感じられてしまう瞬間というのがごくたまに、訪れる。
あと、映画の後にはヴィヴィアン佐藤さんと飴屋法水さんのトークショーも聞くことができた。なんだかとにかくひたすらに頭の中をごちゃごちゃとかき乱されるような、ホテル街の金曜の夜。
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