2015/03/18

美貌の…

 その絵に出逢って心を奪われてから数年間越しの想いを溢れんばかりに胸に募らせ、自叙伝である『美貌帖』の出版記念である展覧会「美貌の翼」を訪れ、初めて油彩のタブローの作品に触れたのが、今日からたったの1か月前。トークショーとサイン会に参加し、そして今度は緊張にはち切れそうな胸をかかえて、画伯とふたことみことばかりに過ぎずとも言葉を交わすことができたのだが、このタイミングでそのような機会を得ることができたのは奇跡にも近いことだったのかもしれない。「可愛い」というのが一番の褒め言葉、と冗談めかしておっしゃっていたが、その言葉がそれ以上に似合う方もこの地球上にいないだろうと思われる、茶目っ気たっぷりの、チャーミングな方だった。

 金子國義の作品について、金子氏自身や作品そのものについてはおそらくもっとえらいかたがやってくださるだろうから、彼の死という契機によってそのファンのひとりとして、感じたことを。ニュース記事によっては金子氏の作風を「頽廃的な」などと評しているのが目立つが、確かにあえて言葉を使うならばそのように表現するしかない作品群だとしても、実物を見たならば、そうした文言がいかに効力を持たず寒々しいものでしかないかにはすぐにでも気付くはずであるし、ナチスによる「退廃芸術」の例を持ち出すまでもなく、表立った公的な評価を受けることのみによって「優れた」作品であるとみなされる、といった通念などはすぐにでも転覆されて掻き乱されることであるだろう。その経験は、金子氏の作品が個人的な趣味にぴたりと合致する私のような人でなくても得ることができるのではないか。その点に私は、彼の作品の意味が見出せるのではないかと感じている。


 別に「頽廃的な」ものを礼讃したいわけではない。「ちょっとアウトローなものが好きな自分」というものに悦に入っているわけでもない。もしかすると今後、彼へのオマージュをこめた催しなどが開かれることもあるかもしれないが、どれだけ言葉を連ねようともそれに絡め取られるのを巧みにすり抜け、あるいは無機質なその並びに亀裂を入れて溢れ出してしまうほどの、さしあたっては「魔」とでも言い表すしかない魅力を、それを(自覚的、無自覚的にでも)求めている人が出逢うことができたら、と強く思う。

 現在は金沢の泉鏡花記念館で「ドラコニアから吹く風ー澁澤龍彦展」という展覧会を開催しており、金子氏の作品も展示されているという。近いうちにぜひとも訪れたいところだが果たして、その余裕があるかどうか。いわゆる「澁澤龍彦とその周辺の方々」(と私が勝手に呼んでいる)についても以前からモヤモヤと感じているところもあるのだが、思考が整理できていないので、またいずれ。


 それにしても、自分が長いこと本当に好きであった作家やアーティストがこの世を去るという経験をすることはもしかすると自分の人生においては初めてに近く、仮にも人の死に際して自身の感傷的な想いを吐露するのは憚られるのだが、自分自身が年を重ねているのだということに否が応でも自覚的にならざるを得なかった。

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