2015/03/19

「ディオールと私」(2014)

 オートクチュールの煌びやかな世界など、私の人生においては哀しくなるほどに縁がなかったし、これからもきっとそうなのだろうと思う。いわゆるハイ・ブランドものを、無理をしてまで欲しいと思うようなことってあまりないのだけれど、しかしとりわけChristian Diorだけは例外的に、憧れの気持ちを刺激してくる。(これはどういうわけなのだろうかと考えているけれど、あまり真剣に考えたことはないのでいまだ答えは出ず。)

 本作は、オートクチュール未経験であったというラフ・シモンズがDiorのデザイナーとして抜擢され、コレクション発表までの8週間を描いたドキュメンタリー。デッサンが図面へ、厳密な注文により出来上がった生地が裁断され、平面となり、それが縫製によってみるみるうちに立体化する。熟練のお針子さんたちによってドレスが魔法のように形を得てゆくさまは、まさしく命を吹き込まれてゆくという表現がぴったりである。
 制作の段階からショーが近付くにつれて、アトリエの緊張感は徐々に高まりを見せる。その緊張はショーの開始と同時にピークを迎え……壁一面の生花に囲まれた贅を極めた会場で、よもや人とは思えない身体を持つモデルの纏う、ドレスやスーツのあまりの美しさに眼は眩み、陶然とし、此の世にこれほどまでに麗しい世界があるのかと呆と感じているうちに、気付けば涙が…(おいおいなんて単純なのだ自分…)と思っていたら、上映終了後に周りには本当に涙をこぼしている方もそこそこ見受けられた。
 
 制作という生みの長く苦しい時間に比べたらコレクションの発表の時間などはまるで一瞬に過ぎない。その瞬間性は、おそらくこのショーが終わればすぐに撤去されて焼き捨てられるか、そうでなくても数日後にはほとんど枯れ萎れてしまうであろう壁の生花が象徴するかのようである。決して永遠には持続することの叶わぬ美。それが極まるのはほんの一瞬だということがあらかじめ定まっているからこそ、その刹那が結晶化して見るものの脳裏に焼き付くのであり、そういう点においてモードは永遠であるのかもしれない…(意味不)。

 モード論、ファッション論にはこれまで手を出したことはなかったけれど、こういうドラマティックなものを見せられたときにも語る言葉が乏しすぎて、もどかしいことこの上ない…。

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