2015/03/23

山田登世子『モードの帝国』(ちくま学芸文庫、2006年)

 山田登世子。彼女の存在は、そのタイトルの通り眠りにつく女性という主題を描いた絵画作品を数多く集めた『眠る女』の著者であったことから知り、そのあとがきの文章がとても気に入っていた。その後調べてみたところ、著作や翻訳書をかなりの数出版していることに驚き、そのどのタイトルも私のアンテナに引っかかるものであった。今回は自分が今知りたいこととも関連して、ちくま学芸文庫『モードの帝国』(現在は絶版…)を読んだのだが、果たして「ピンとくる作家だな」という当初の直感が正しかったことが分かった。読んでいて痛快なまでに心地の良い本を書く著者に出会うことができたのは、久しぶり。(あくまで自分が女であることに自分をどっぷりと浸らせて読んでみると、ということであって、ある意味で危険な快楽であるのかもしれないけれど…それもたまにくらいなら…。)

 内容について述べる前にまず彼女に、文筆家、ものを書く人としての才能が際立っていることに驚く。文章の流れが、一文一文のリズムと抑揚とが、著者独特のものであり、文体フェチの私としては新たなパターンを得たかのようで嬉しい。物憂げに過去を振り返るときがある。読者に対して、誘惑的に、あるいは挑発的に、呼びかけるときがある。断固として主張を示すときがある。そうかと思えばそれを覆すかのように、気紛れに読者を煙に巻くときがある。ひらりと裾を翻しアクセサリーのきらめきを見せる…まるで文章全体が美しい衣服の数々を纏った女性そのもののよう。
 ドゥルーズやバルト、ボードリヤール、プルーストなどを引用しつつも、重くて退屈にならないように、かといってふわふわと軽くはなりすぎない程度に……自由で優美なエッセイ調の書き方はそれ自体がバルトを彷彿とさせるものでもあるが、文章全体から香水のように匂い立つ官能と色香、コケットは彼女独自の類稀な魅力であろう。


 本書を読む前にウェブ上で、鷲田清一の『モードの迷宮』は男性によるモード論、こちらの『モードの帝国』は女性によるモード論…と言われていたのが気になっていたのだが、鷲田さんの著作が「男性による」モード論かどうかはさておき、本書を読み始めると想定以上の女性の視点の重視に驚く。完全にこれは、「女性による」モード論といっても差し支えはないだろう。男どもの黄昏。これからは女のモード、その帝国の時代。抑圧されさげすまれてきた女性による反逆と革命。這い上がりトップに上り詰めたココ・シャネルはその女神、シンボル的な存在だ。

 そうして獲得した女性のモードの時代とは、しかしこれまで男たちからは軽蔑されてきた歴史を持つ。「女性のファッションは空虚で軽薄」― しかし著者はその侮蔑的な言葉を、微笑さえ湛えて受け流す。それはまるで自分たちが支配してきたと思い込んでいた対象が実は得体の知れぬもので、捕まえようともすり抜けていってしまうことに気付いて慌てふためく人々の滑稽さを嘲笑うかのよう。あるいは、いったんは受け入れて安心させたところで、そんなうまいこといくと思ったの?と、切り返すのだ。セクハラオヤジの言に乗るふりをしてともに寝床に潜り込んだところで突如、懐に隠した短刀を喉元に突きつけるかのようにして。いずれにせよ表面的には余裕の微笑みを浮かべて容赦も躊躇もなくなされるだけにその行いは残酷であり、だからこそ(女にとってすれば)痛快なのだ。空虚だからこその、女性の、決して剥ぎ取ることの出来ない素顔。

 軽薄、蜉蝣、虚栄、空虚…数々の蔑みの言葉…著者はこれを豪奢、儚さ、軽やかさ、無邪気さ、さらにはエフェメラの帝国―と、覆い掛けられた衣を翻すかのように裏返す。ただし裏返しきりではない。またそれを再び表に返して、ひらひらと、読む者を幻惑するかのよう。本書のあとがきには、本書がセクシュアリテやエロスを、実体論的な性愛論ではなく形式性によって考えるために書かれたものだと述べられている。



 通読して思ったこと。かつて偉大な精神分析学者によって結論付けられた「女性は存在しない」というテーゼ…まさにこれを逆手に取り、さらにはこれが巻き起こした様々な騒動をすりぬけるかのようである。個人的には、女性が女性というものを語るにあたっては、そんなある意味で開き直るかのような戦法(?)は、好みである。私が女と言うものについて何でも良いから何も気にせずに好きなように書いてよいと言われたら、おそらく同じようにして書くだろう。そんな態度を示すことが結局のところは、これまで女性たちが勝ち取ってきたさまざまな成果を無に帰し、それ以前の性差の区別に回収してしまう危険を孕むかもしれないということは分かってはいる。ファロセントリスム的な言説に対して躍起になって真っ向からそれを否定しにかかるのではなく、その差異をいったんは受け容れて、その立場から美点を押し出す。この論じ方が男根主義の論者たちに対して一時的といえども「負け」を認め、自ら差別を生み出してしまうかのような、そんな危ういバランスで成り立っているのは間違いないのであって、その均衡を崩さぬようにすることにはくれぐれも、細心の注意を払わなくてはならない…ということは、分かってはいるのだけれど。


 しかしいろいろな本を読んでみる機会があっても、過敏に反応してしまうのはどうしても、女性に関して書かれたものばかり。女という生き物の沼に嵌ってゆくようだ。気付いたときからまず女性という立場を自覚して出発しなくてはならないのが悔しすぎるからと思って、フェミニズムのものを意図的に避けるようになっていたというのに、胎の底に蟠ったどす黒いような何かは、抑えつけていたつもりになっても耳聡く反応してしまう。皮肉なことだ。

 それをなんとかして見て見ぬふりをしたくとも、湧き上るものは否が応でも身体を侵食する。月の障りが私自身に私が女であると思い出させるときには、文字の通り肉体的に。あるいは敢えては意識せぬよう努める心に、影のように付き纏ってくる。払い落としたい。拭い去りたい。だが、自分が女であるということを本当に真っ向から否定したいのか、と考えたときに、私自身が「少女」が好き、という事実。あるいは少女の自己防衛としての装いであるゴシックロリータを愛好してしまう性癖。それこそまさに女による自己愛的なセンチメンタリスムに酔い、それに依拠してしまっている証拠ではないか。澁澤のエッセイにときおり悪心を催しながらも、どこかその甘美な少女というナルシスティックな幻想に浸ってしまっているのはほかならぬ自分自身ではないか。気付いて、我ながら呆れる。近ごろはその繰り返し。きっとこのさきも一生のあいだ、完全には解消不可能であろうアンビヴァレント。

 いちど抱き始めた疑問は解決がないかぎりは永遠につきまとう。おそらくそれこそが私自身の宿命なのかとも思うし、その違和感を楽しむ人生というのも一周回ってありなのかもしれないと最近は思い始めている。だって仮に「克服」ができた(その到達地点は知らないけれど)ところで、何が良く変わってゆくだろう。最近は男の人だって、大変なわけだし。でもどうあれあと少しくらいは、自分自身を試してみる時間を設けたいと思う。

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