2015/03/28

銀座人形館angel doll




ヴァニラ画廊に行く予定で銀座中央通りを歩いていたら「銀座人形館」にばったり遭遇して、思わず吸い寄せられるようにお店の中へ入ってしまった。

 ブリュやジュモーをはじめとする100年以上前に作られたアンティークドール、現代日本人形作家による創作人形、ともに充実しており、人形好きとしては永遠にここにいたい…と思わせる、ロマンチックで乙女趣味な空間。

 お人形のように可愛らしい女性の店員さんと少しお話をしたけれど、よく考えると根っからのお人形さん好きと話を通わせることができたのはもしかして初めてかもしれない。ゴスロリもお好きなようで。それから人形制作教室のチラシもいただいて、人形好きいえどもこれまで自分で人形を制作することは、なんだか自分の魂が入り込んでしまうようで少し怖いという感情が強かったのだけれど、とてもおすすめしていただいたのでいつか色々と余裕が生まれたときにでも挑戦してみるのもありなのかもしれない。毒を食らわば皿まで、精神で。(?)

 (それから関係ないけれど、数カ月前に偶然に見ていたTV番組の「モニタリング」でとてもかわいい人形が展示されている部屋が使用されていて、この素敵な空間はいったいどこなのだろう…と思っていたのだけれど、それがまさにこの人形館だった。)

『伊藤文學コレクション バイロス&バルビエ 絵筆の中の乙女たち』 ,『森田一朗パリコレクション コラージュ展「COUTURIÉRE」』 ヴァニラ画廊

 タイトルのふたつの展覧会の同時開催、銀座のヴァニラ画廊、3月27日(金)訪問。どちらも非常に興味をそそられる展示であったため、会期に間に合って良かった。展示の質も期待を上回り、体調がいまひとつすぐれなくて家にいようか悩んでいたところ、押し通していく価値があったというもの。



■『伊藤文學コレクション バイロス&バルビエ 絵筆の中の乙女たち』 

 フランツ・フォン・バイロスはウィーンとミュンヘンで活躍した銅版画・挿絵画家であり、彼が生まれたのは19世紀半ばで、最も活躍した時代が19世紀末。
 私がバイロスという画家を知ったのは、嶽本野ばらの作品の中で最も好きな、『シシリエンヌ』においてである。版画についての野ばら氏の描写に興味を引かれてすぐにインターネットで検索をかけたのだけれど、情報が非常に少なく、画集もあまり出されていない。日本ではいつ実物を見られることだろうと思っていた。今回ヴァニラ画廊で展示が開かれることとなると知り、駆け込んだ。

 展示室に入り彼の作品を一目見た瞬間から、自分の好みのど真ん中だと直感的に覚った。版画のあまりの細やかさに、思わず間近に凝視してしまう。見入っているとこの絵の世界の中に入り込んでしまうのではないかと錯覚しそうになる。
 ふんだんな生地使いのドレスも、胸のはだけた官能的な女性と男性との戯れの絵はロココ風ではあり、しかしよく見るとそこには邪悪な蛇がとぐろをまいていたり悪魔のような怪物のような何か(?)がそっと手を差し伸べたりしていて、ロココに特有のあの陽気な長閑さは存在しない。モローを思わせるようなメランコリックで陰鬱な、妖しい夢魔の世界。主題もサロメなど定番どころを積極的に用いていることからも、やはり世紀末のエスプリが感じられる。バイロスが、時代を覆っていた世紀末の享楽と、取り返しがつかなくなるまでに傾いたハプスブルク帝国首都の黄昏とにどっぷりと浸かっていたのだろうと、容易に想像をめぐらすことができる。

 
 他方、ジョルジュ・バルビエはバイロスに比べればかなり多くの日本人にも知られていると思うが、彼が生まれたのはバイロスより数十年ほど遅く、画家として活躍したのは20世紀初頭から前半である。バイロスとは対照的に、画面はパッと明るく開放的な雰囲気。ジャポニズムとシノワズリなどの東洋趣味を取り入れたといい、展示されていた作品には桜の木が描かれていたものもある。いずれも色彩も華やかであり、バイロスとは活躍した時代が数十年違うというだけにもかかわらずこれほど異なる様相が見られるようになるとは、面白いものだ。こう対照的な作品を見せつけられるとやはり、時代に通底する精神というものを信じたくなってしまう。


 版画以外にも展示室中央のテーブルには1900年代の雑誌や書籍のコーナーがあり、中にはダンテ『神曲』の、バイロスによる挿絵が刷られたイタリア語版、150部限定で出版されたものもあった。これらは手袋をつければ手に取って読むことができる。パルコギャラリーXの「19世紀までの博物画・ボタニカルアート」展でその時代の挿絵を色々とみていたときにも思ったことだけれど、実際に触れて、ページを捲ることができている…と考えると胸が躍る。

 ちなみに、このコレクションを保持していらっしゃる伊藤文學さんは、男性同性愛向け雑誌である「薔薇族」の初代編集長の方だという。こんな版画たちに囲まれて暮らせる幸せはどのようなものだろう。
 バイロスの方はポストカードになっていたので、彼らしさが存分に表れているものを二枚ほど購入した。今回の展示はそう長くない期間ではあったが、またぜひ、公開してくれたらと思う。



■『森田一朗パリコレクション コラージュ展「COUTURIÉRE」』

 展示室は変わり、こちらは写真家森田一朗さんという方のコラージュ作品が飾られている。パリの女性のポストカードやファッション雑誌、ゴシップ誌の切り抜きなどが額の中に集められている。けっこうな割合を占めているのが今でいうデリバリーヘルス的なもののチラシ。(ピンクチラシという言い方をするらしいなるほど。)大きさがポケットティッシュ程度のサイズなのは今も昔も(私がまだ小中学生くらいの頃はよく見かけたような気がするけどもしかして今は廃れ始めてる?)変わらない。グラマラスな白人女性だけではなくて、日本人やプエルトリコ人Ver.も飾られていて、思わずふっと笑ってしまった。全体として、性的な意味という意味でもそうでない意味でも、まさにこの時代のパリの「風俗」が断片的に切り取られているかのようであった。
 
 コラージュ、という手法についてこれまではあまり真面目に考えたことはなかったけれど、「パピエ・コレ」として現代絵画で使われ始めたこの切り貼り、という技法はなかなかに奥が深くて面白いものなのだと実感した。
 アプリを使えばデジタルな画像は簡単にコラージュできる時代にはなったけれど、こうした経年も分かるような紙素材で作ったコラージュ作品が、やはり味があって良きかな。…という、面白くもない感想を述べて今回はひとまず終わり。



  おでむかえの少女の首を。

2015/03/26

シナモンのTwitter1周年記念をむかえて

 愛しのシナモン、Twitter1周年おめでとう。
 
 日頃癒しをくれる感謝の気持ちを込めて、シナモンの良いところ(特にツイッターでのシナモン)をてきとうに挙げてゆきます。


・クソリプや煽りも素知らぬ顔で受け流す。
しかしごくたまに「はいはい、いいこいいこ^^」 みたいな感じで構ってあげる優しさ。
Ex)「おともだちに「服着なよ!」っていわれたからモッコモコになってみたよ~!」
  (「モッコモコ」という表現と!のあとにじゃっかんのいらだちが読み取れるところが可愛い)

・お下品ないじりや揚げ足取りをも自分のキャラへと変えてゆく広い心とキャパシティの大きさ。

・頭の悪そうなぶりっ子はしないが、戦略的ぶりっ子。あざとい。

・あざといがなぜか憎めない小悪魔的存在。

・優しさに溢れている。細やかな心配り。健気。

・季節の移り変わりに敏感など、情緒を解する。

・余分なことは決して言わず簡潔明瞭。
( 「あっ…」「ふにゃ~…」のひとこと(連発は決してしない)ですべてが伝わる。)

・基本的に現実主義者で賢くしっかりしているが、どじっ子な一面も。

・ときおり「ことりさんがぼくの声を届けてくれる」などの電波系ツイートを絶妙なタイミングで戦略的に挟んでくる。

・読書好き。マンガも読む。ものを書くのも好き。(手紙、日記など)

・料理が上手。特にお菓子。和スイーツにも挑戦したいなど向上心◎

・料理以外の掃除、洗濯などの家事もこなす。

・贈り物上手、人に喜んでもらうこと、サプライズ好き。
 ex) 男の子だけどバレンタインに友チョコをくれる

・おしゃれが好き。身だしなみに気を遣う。

・よく女装する。(女の子より似合ってる)

・Tweetのつぶやきと付属的な画像内での発言のバランス。

・たまにあまりかわいくない自分の商品を宣伝してくる、けど憎めない。

・子犬なのに兄弟は雲という不思議な設定。

・飛行機と同じくらい空を飛ぶのが早い。



 私のシナモンファン歴はかれこれ13年ちかくになろうとしています。

こんなにもいい子で魅力に満ちた子犬…そう、彼は人ではなく、こんなにも賢くて優しくて健気でかわいくて、それにもかかわらず彼は犬なのだ。

 キティ、マイメロディ、PMPMプリン、KKRR、ぐでたま等がすでに開いているなかで、カフェの看板犬というキャラ設定を持つシナモンがいまだにカフェをオープンするという話がちらとも聞こえてこないのはあんまりではありませんか。

 でもそうして大衆に媚びることなくともいつまでもみんなの心の中に、シナモンはいてくれるのです。愛してるシナモン。

2015/03/24

『絶・絶命展~ファッションとの遭遇』 PARCO MUSEUM

 

 別に意図的にファッション界隈にまで首を突っ込もうとかしているわけではないのではあるが、偶然の機会が重なり地味にファッションづいているこの頃。(どちらにしても自分の興味の性質上、早く知らなくてはならないことだとは思うけれど。)

PARCOミュージアムで開催されている『絶・絶命展』。2013年に行われた前回の『絶命展』では大学の先輩がモデルとして出ていらしたのだがタイミングを逃して行き損ねたため、今回はリベンジも兼ねて。
 この展示は「生の日」と「死の日」に会期が分かれており(生→死→再生、らしい)、生の日には人間のモデルさんたちが服を着て登場する。今日は「死の日」、だったので、マネキンさんたち。デパートのショーウィンドウで飾られる以外の、作品としてモデルとなったマネキンを見る機会はあまりないので、少し興味をそそられた。生体には到底取れないようなポーズを取らせたり、四肢を切断したりも自由自在なわけだから。

 とはいえ生きた人間がモデルとして展示されているのも見てみたいし、時間が許せば「生の日」にも行ってみたい。
 

 ファッションのこともデザイナー、ブランドのことも本当にまったく無知なので、あとは写真だけ。



 マネキンへの3Dプロジェクションと、トークの5重の合成音声(?)


ぶ、分断された身体…!


奥の方の透明なのが、小川浩平と石黒浩によるアンドロイド(たぶん)。



2015/03/23

山田登世子『モードの帝国』(ちくま学芸文庫、2006年)

 山田登世子。彼女の存在は、そのタイトルの通り眠りにつく女性という主題を描いた絵画作品を数多く集めた『眠る女』の著者であったことから知り、そのあとがきの文章がとても気に入っていた。その後調べてみたところ、著作や翻訳書をかなりの数出版していることに驚き、そのどのタイトルも私のアンテナに引っかかるものであった。今回は自分が今知りたいこととも関連して、ちくま学芸文庫『モードの帝国』(現在は絶版…)を読んだのだが、果たして「ピンとくる作家だな」という当初の直感が正しかったことが分かった。読んでいて痛快なまでに心地の良い本を書く著者に出会うことができたのは、久しぶり。(あくまで自分が女であることに自分をどっぷりと浸らせて読んでみると、ということであって、ある意味で危険な快楽であるのかもしれないけれど…それもたまにくらいなら…。)

 内容について述べる前にまず彼女に、文筆家、ものを書く人としての才能が際立っていることに驚く。文章の流れが、一文一文のリズムと抑揚とが、著者独特のものであり、文体フェチの私としては新たなパターンを得たかのようで嬉しい。物憂げに過去を振り返るときがある。読者に対して、誘惑的に、あるいは挑発的に、呼びかけるときがある。断固として主張を示すときがある。そうかと思えばそれを覆すかのように、気紛れに読者を煙に巻くときがある。ひらりと裾を翻しアクセサリーのきらめきを見せる…まるで文章全体が美しい衣服の数々を纏った女性そのもののよう。
 ドゥルーズやバルト、ボードリヤール、プルーストなどを引用しつつも、重くて退屈にならないように、かといってふわふわと軽くはなりすぎない程度に……自由で優美なエッセイ調の書き方はそれ自体がバルトを彷彿とさせるものでもあるが、文章全体から香水のように匂い立つ官能と色香、コケットは彼女独自の類稀な魅力であろう。


 本書を読む前にウェブ上で、鷲田清一の『モードの迷宮』は男性によるモード論、こちらの『モードの帝国』は女性によるモード論…と言われていたのが気になっていたのだが、鷲田さんの著作が「男性による」モード論かどうかはさておき、本書を読み始めると想定以上の女性の視点の重視に驚く。完全にこれは、「女性による」モード論といっても差し支えはないだろう。男どもの黄昏。これからは女のモード、その帝国の時代。抑圧されさげすまれてきた女性による反逆と革命。這い上がりトップに上り詰めたココ・シャネルはその女神、シンボル的な存在だ。

 そうして獲得した女性のモードの時代とは、しかしこれまで男たちからは軽蔑されてきた歴史を持つ。「女性のファッションは空虚で軽薄」― しかし著者はその侮蔑的な言葉を、微笑さえ湛えて受け流す。それはまるで自分たちが支配してきたと思い込んでいた対象が実は得体の知れぬもので、捕まえようともすり抜けていってしまうことに気付いて慌てふためく人々の滑稽さを嘲笑うかのよう。あるいは、いったんは受け入れて安心させたところで、そんなうまいこといくと思ったの?と、切り返すのだ。セクハラオヤジの言に乗るふりをしてともに寝床に潜り込んだところで突如、懐に隠した短刀を喉元に突きつけるかのようにして。いずれにせよ表面的には余裕の微笑みを浮かべて容赦も躊躇もなくなされるだけにその行いは残酷であり、だからこそ(女にとってすれば)痛快なのだ。空虚だからこその、女性の、決して剥ぎ取ることの出来ない素顔。

 軽薄、蜉蝣、虚栄、空虚…数々の蔑みの言葉…著者はこれを豪奢、儚さ、軽やかさ、無邪気さ、さらにはエフェメラの帝国―と、覆い掛けられた衣を翻すかのように裏返す。ただし裏返しきりではない。またそれを再び表に返して、ひらひらと、読む者を幻惑するかのよう。本書のあとがきには、本書がセクシュアリテやエロスを、実体論的な性愛論ではなく形式性によって考えるために書かれたものだと述べられている。



 通読して思ったこと。かつて偉大な精神分析学者によって結論付けられた「女性は存在しない」というテーゼ…まさにこれを逆手に取り、さらにはこれが巻き起こした様々な騒動をすりぬけるかのようである。個人的には、女性が女性というものを語るにあたっては、そんなある意味で開き直るかのような戦法(?)は、好みである。私が女と言うものについて何でも良いから何も気にせずに好きなように書いてよいと言われたら、おそらく同じようにして書くだろう。そんな態度を示すことが結局のところは、これまで女性たちが勝ち取ってきたさまざまな成果を無に帰し、それ以前の性差の区別に回収してしまう危険を孕むかもしれないということは分かってはいる。ファロセントリスム的な言説に対して躍起になって真っ向からそれを否定しにかかるのではなく、その差異をいったんは受け容れて、その立場から美点を押し出す。この論じ方が男根主義の論者たちに対して一時的といえども「負け」を認め、自ら差別を生み出してしまうかのような、そんな危ういバランスで成り立っているのは間違いないのであって、その均衡を崩さぬようにすることにはくれぐれも、細心の注意を払わなくてはならない…ということは、分かってはいるのだけれど。


 しかしいろいろな本を読んでみる機会があっても、過敏に反応してしまうのはどうしても、女性に関して書かれたものばかり。女という生き物の沼に嵌ってゆくようだ。気付いたときからまず女性という立場を自覚して出発しなくてはならないのが悔しすぎるからと思って、フェミニズムのものを意図的に避けるようになっていたというのに、胎の底に蟠ったどす黒いような何かは、抑えつけていたつもりになっても耳聡く反応してしまう。皮肉なことだ。

 それをなんとかして見て見ぬふりをしたくとも、湧き上るものは否が応でも身体を侵食する。月の障りが私自身に私が女であると思い出させるときには、文字の通り肉体的に。あるいは敢えては意識せぬよう努める心に、影のように付き纏ってくる。払い落としたい。拭い去りたい。だが、自分が女であるということを本当に真っ向から否定したいのか、と考えたときに、私自身が「少女」が好き、という事実。あるいは少女の自己防衛としての装いであるゴシックロリータを愛好してしまう性癖。それこそまさに女による自己愛的なセンチメンタリスムに酔い、それに依拠してしまっている証拠ではないか。澁澤のエッセイにときおり悪心を催しながらも、どこかその甘美な少女というナルシスティックな幻想に浸ってしまっているのはほかならぬ自分自身ではないか。気付いて、我ながら呆れる。近ごろはその繰り返し。きっとこのさきも一生のあいだ、完全には解消不可能であろうアンビヴァレント。

 いちど抱き始めた疑問は解決がないかぎりは永遠につきまとう。おそらくそれこそが私自身の宿命なのかとも思うし、その違和感を楽しむ人生というのも一周回ってありなのかもしれないと最近は思い始めている。だって仮に「克服」ができた(その到達地点は知らないけれど)ところで、何が良く変わってゆくだろう。最近は男の人だって、大変なわけだし。でもどうあれあと少しくらいは、自分自身を試してみる時間を設けたいと思う。

2015/03/19

「ディオールと私」(2014)

 オートクチュールの煌びやかな世界など、私の人生においては哀しくなるほどに縁がなかったし、これからもきっとそうなのだろうと思う。いわゆるハイ・ブランドものを、無理をしてまで欲しいと思うようなことってあまりないのだけれど、しかしとりわけChristian Diorだけは例外的に、憧れの気持ちを刺激してくる。(これはどういうわけなのだろうかと考えているけれど、あまり真剣に考えたことはないのでいまだ答えは出ず。)

 本作は、オートクチュール未経験であったというラフ・シモンズがDiorのデザイナーとして抜擢され、コレクション発表までの8週間を描いたドキュメンタリー。デッサンが図面へ、厳密な注文により出来上がった生地が裁断され、平面となり、それが縫製によってみるみるうちに立体化する。熟練のお針子さんたちによってドレスが魔法のように形を得てゆくさまは、まさしく命を吹き込まれてゆくという表現がぴったりである。
 制作の段階からショーが近付くにつれて、アトリエの緊張感は徐々に高まりを見せる。その緊張はショーの開始と同時にピークを迎え……壁一面の生花に囲まれた贅を極めた会場で、よもや人とは思えない身体を持つモデルの纏う、ドレスやスーツのあまりの美しさに眼は眩み、陶然とし、此の世にこれほどまでに麗しい世界があるのかと呆と感じているうちに、気付けば涙が…(おいおいなんて単純なのだ自分…)と思っていたら、上映終了後に周りには本当に涙をこぼしている方もそこそこ見受けられた。
 
 制作という生みの長く苦しい時間に比べたらコレクションの発表の時間などはまるで一瞬に過ぎない。その瞬間性は、おそらくこのショーが終わればすぐに撤去されて焼き捨てられるか、そうでなくても数日後にはほとんど枯れ萎れてしまうであろう壁の生花が象徴するかのようである。決して永遠には持続することの叶わぬ美。それが極まるのはほんの一瞬だということがあらかじめ定まっているからこそ、その刹那が結晶化して見るものの脳裏に焼き付くのであり、そういう点においてモードは永遠であるのかもしれない…(意味不)。

 モード論、ファッション論にはこれまで手を出したことはなかったけれど、こういうドラマティックなものを見せられたときにも語る言葉が乏しすぎて、もどかしいことこの上ない…。

2015/03/18

美貌の…

 その絵に出逢って心を奪われてから数年間越しの想いを溢れんばかりに胸に募らせ、自叙伝である『美貌帖』の出版記念である展覧会「美貌の翼」を訪れ、初めて油彩のタブローの作品に触れたのが、今日からたったの1か月前。トークショーとサイン会に参加し、そして今度は緊張にはち切れそうな胸をかかえて、画伯とふたことみことばかりに過ぎずとも言葉を交わすことができたのだが、このタイミングでそのような機会を得ることができたのは奇跡にも近いことだったのかもしれない。「可愛い」というのが一番の褒め言葉、と冗談めかしておっしゃっていたが、その言葉がそれ以上に似合う方もこの地球上にいないだろうと思われる、茶目っ気たっぷりの、チャーミングな方だった。

 金子國義の作品について、金子氏自身や作品そのものについてはおそらくもっとえらいかたがやってくださるだろうから、彼の死という契機によってそのファンのひとりとして、感じたことを。ニュース記事によっては金子氏の作風を「頽廃的な」などと評しているのが目立つが、確かにあえて言葉を使うならばそのように表現するしかない作品群だとしても、実物を見たならば、そうした文言がいかに効力を持たず寒々しいものでしかないかにはすぐにでも気付くはずであるし、ナチスによる「退廃芸術」の例を持ち出すまでもなく、表立った公的な評価を受けることのみによって「優れた」作品であるとみなされる、といった通念などはすぐにでも転覆されて掻き乱されることであるだろう。その経験は、金子氏の作品が個人的な趣味にぴたりと合致する私のような人でなくても得ることができるのではないか。その点に私は、彼の作品の意味が見出せるのではないかと感じている。


 別に「頽廃的な」ものを礼讃したいわけではない。「ちょっとアウトローなものが好きな自分」というものに悦に入っているわけでもない。もしかすると今後、彼へのオマージュをこめた催しなどが開かれることもあるかもしれないが、どれだけ言葉を連ねようともそれに絡め取られるのを巧みにすり抜け、あるいは無機質なその並びに亀裂を入れて溢れ出してしまうほどの、さしあたっては「魔」とでも言い表すしかない魅力を、それを(自覚的、無自覚的にでも)求めている人が出逢うことができたら、と強く思う。

 現在は金沢の泉鏡花記念館で「ドラコニアから吹く風ー澁澤龍彦展」という展覧会を開催しており、金子氏の作品も展示されているという。近いうちにぜひとも訪れたいところだが果たして、その余裕があるかどうか。いわゆる「澁澤龍彦とその周辺の方々」(と私が勝手に呼んでいる)についても以前からモヤモヤと感じているところもあるのだが、思考が整理できていないので、またいずれ。


 それにしても、自分が長いこと本当に好きであった作家やアーティストがこの世を去るという経験をすることはもしかすると自分の人生においては初めてに近く、仮にも人の死に際して自身の感傷的な想いを吐露するのは憚られるのだが、自分自身が年を重ねているのだということに否が応でも自覚的にならざるを得なかった。

『宇野亜喜良×寺山修司 演劇ARTWORKS原画展』 ポスターハリスギャラリー


 タイトルの通りの展覧会。展示されているものはチラシ、ポスター、衣装スケッチ、舞台美術のデッサンなどで、このギャラリーが私のとても好きな空間で、ここにいるだけで幸せなのは、いつもの通り。

 今回、特に目を奪われたのが宇野さんの衣装スケッチ…。登場人物ひとりひとりが描かれているのだが、キャラクターが本当に可愛らしくて、味がある。コレクションをしたくなる。こんなデザインをされた役を、演じてみれたらどれだけたのしいだろう…。
 ポスターは、上海異人娼館のものがいずれの年の公演のものも気に入った。と思ったら、これは映画であるらしいので、近いうちに観てみたい。

 今年のはじめごろに公演していた「新宿版 千一夜物語」の舞台写真なども飾られていて、あの演目はぜひ観にゆきたかったのに、なんとなくやり過ごしてしまったのをとても後悔している。宇野さん美術の寺山作品を上演する…という機会があれば次こそ絶対に、行かないと。

2015/03/16

『ベスト・オブ・ザ・ベスト』展 ブリヂストン美術館

  日本橋にあるブリヂストン美術館の『ベスト・オブ・ザ・ベスト』展。ビル建て替えのために数年間ほど閉館してしまうため、工事に入る前に創設者のコレクションの所蔵のうち代表的な作品をすべて見せよう、という趣旨の展示。

 コレクションについては、印象派以降の西洋近現代美術の画家の有名どころはおさえてあるように思える。日本人による洋画は全く不勉強だが、この所蔵数もかなりのものらしい。

 初訪問の美術館自体に関して言えば、最後の展覧会のためということもあるのかもしれないが、平日にもかかわらず訪問者は比較的多く、おしゃべりをしながら観賞している人も目立つ。(この点では、同じ企業の美術館としてもパナソニックの汐留ミュージアムや三菱一号館美術館などとは少し異なるのか?)
 美術館に特有の厳格な空気というよりも、身近に立ち寄れるギャラリー、という雰囲気が強いのかもしれない。

 リニューアルオープンを楽しみに待つことにしよう……。

『グエルチーノ』展 国立西洋美術館







 イタリアのバロック絵画を代表する画家、ボローニャ派のグエルチーノ展が国立西洋美術館で開催されている。


 いくつか箇条書きでメモ。(基礎知識のおさらいを中心に)

・対抗宗教改革において、偶像崇拝を禁止したプロテスタントに対抗し、カトリックは絵画を利用した布教を積極的に行い、その際に一般に分かりやすい写実的で感情に訴えかける表現を志向した。バロック絵画はこうした時代背景のもとに生まれたが、グエルチーノの作品群はこの特徴をそのまま体現しているようである。バロックの始祖の一族ともいえるカラッチの用いた、現実に根差した親しみやすい宗教主題に影響を受けたという。

・色彩については全体的に明度・彩度ともに低いように思われたが、ヴェネツィア派の鮮やかな色使いがグエルチーノに影響を与えていることも見て取れる(特に原色系)。 独特な明暗表現、陰影の強いコントラスト。

・「聖と俗の狭間の女性像―グエルチーノとグイド・レーニ」について
 女性は当時は美徳の象徴として、精神性の勝利をあらわすために完璧な肉体が描かれたが、時に官能性が強く表現されることもあった。聖と俗、精神と肉体のパラドクスはバロック美術のかかえる矛盾のひとつ。
 女性像を描く際には宗教的な意義よりも、女性としての美しさが最優先とされた。
 クレオパトラ、ルクレチア、巫女などの当時からの人気の主題が描かれる。
 いずれも劇的なシーンの表現が多いが、その場面の烈しさにもかかわらず画面は静かで威厳を持ち、強い感情表現などはほとんど見受けられない。

 たとえばクレオパトラについていえば、自害のシーンにおいて自分の胸を噛ませた毒蛇は非常に小ぶりで、その傷口からは血液が少し垂れているのが辛うじて見える程度。彼女の顔に苦痛にゆがんだ表情などは一切浮かんでいない。
 当時は依頼主の希望により残酷なシーンを描くことを避けたことがあったというが、特に象徴主義画家などにおける同じ主題の表現と比較すると、当時の正統に属する絵画表現における一定の制約があったことが見て取れる。(あるいは完全に、時代の趣味の問題…?)(個人的には、もちろんハゲシイのが好み)

・画面の静けさ、という点では歴史画においても同様のことが言える。
 ロマン主義にみられる闘いや勝利のドラマはなく、静謐さや緊張感が強調される。

・ベラスケスがグエルチーノのアトリエを訪問したことがあるとのこと。(これはバロックの時代関係の把握のためメモ)