ずっと気になってはいて、友人のおすすめで背中を押されて会期末間際に駆け込み。
展示空間に入ってすぐに感じたのは、彼の作品の世界は自分の普段棲みついている世界にかすりさえしないということ。単に異質であるというだけならよくある(というか私の趣味がわりと特殊なのでこの世の大抵は異質なもの)。しかし摩擦すら生じないということは滅多にない。大抵はどこか一部が少しでも響き合うか、あるいは嫌悪感を覚えて拒否反応が生じるかどちらかはあるのに、奇妙なことに私の中の何も一切反応しない。だから写真を前にして、ぼうっと眺めるだけである。もちろん嫌なのではないし、しかしかといって心がリフレッシュされるとか、洗われるというのとも違って、本当に虚を突かれて呆けてしまう、という感じ。
不思議なのは、まるで屈折したものが感じられない、ということではない。健康的とかいっても単なる白痴的健全性、というのとはどこか違う。それがいったい何なのかはうまく言語化できない。
ところで「健全」なヌードという言葉にこれほど相応しいヌードって、これまであまり見たことがないかもしれない。学校の教科書的な「健全」なヌードというのは、ヌードに本来あるはずの性的な含みを持たせまいと健全さをあえて装おうとするがゆえにその裏の猥褻さを透かし見せてしまうものだと思うのだけど、そういうものではない。モデルたちのヌードは理想的な身体美を体現しているわけではない。あるいはヌード・ビーチ的な、なんというかオープンに「性」を謳歌しましょうという余計なお世話だ系の「健全」さともまた違う。彼らは乱交パーティを始めちゃうわけじゃない。
だから「健全」ってなんなんだよ、ということではあるのだけど、それでも彼の作品は健全という表現がしっくりくる、気がしてしまう。
「性」は確実に現前している(ように私には思える)のに、それがこの世ならぬものであるかのようにあまりにも無菌的。知恵の実を食べる前のアダムとイヴの楽園だろうか。「ユートピア」という言葉が展示の説明にも使われていたけれど。いずれにせよ写真についてもヌードについても甚だしく勉強不足なのでへたなことはいえない。
ここ最近の企画展では、FacebookをはじめSNSに最もよく報告のアップされるのを見かける展示だったかも。撮影OKだったし、ヴィヴィッドで華やかだし。
気に入った作品を何点か。
ライアン・マッギンレー(1977- )は、2003年に25歳という若さでニューヨークのホイットニー美術館で個展を開催し、以後もポートレイトと風景写真にさまざまな新機軸を打ち出して「アメリカで最も重要な写真家」と高く評価されています。
マッギンレーは、北米の田園風景、野外コンサート会場、あるいはスタジオのなかで、巧妙に光を操りながら場面を設定しつつ、被写体の予期せぬ動きや“ハプニング”を意識的に取り入れて撮影を行います。過去のさまざまなヴィジュアルイメージを参照しながら、微細で洗練された色彩と構図の作品が表現する、自由で過激、そしてときに純粋なユートピアのような世界は、古き良きアメリカのイメージと重なると同時に、仮想と現実が混在する現代という時代をそのまま反映した表現となっているといえるでしょう。
日本の美術館では初個展となる本展では、作家自選による、初期から最新作までの約50点でその全貌を紹介します。
◇解放された精神の自由を捉える「ヌード」の美しさ
マッギンレーの作品に登場する人物たちは、そのほとんどがヌードです。とくに特徴的なのが、見渡すかぎりの広大な草原のなかを疾走し、小高い木の上から飛び、雪原に横たわる全裸の被写体たちの奇妙な行為です。彼らは皆プロのモデルではなく、マッギンレーは、衣服を脱いだ彼らがふと垣間みせる一瞬のふるまいを作品にしています。マッギンレーのヌード写真は、表面的な美しさと言うよりも、日常の制約や束縛から解放された精神の自由を捉えているといえるでしょう。被写体となる人物が、思わず自己を忘れて自由奔放に振る舞う瞬間こそが、モデルとの共犯、つまりマッギンレーが共同作業と呼ぶ制作姿勢なのです。
http://www.operacity.jp/ag/exh187/[2016/07/16]
ちなみに今月の芸術新潮の特集は日本ヌード写真史。
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