夜想のテーマ展ということで久々にパラボリカ・ビス訪問。今回は髑髏。骸骨。しゃれこうべ。スカル…。
「夜想」系のものに染まってはいても、昔から「髑髏」というモティーフにはそれほど心惹かれたことがなかったし、どちらかというとあまり好きではない。ダサいヤンキーの人がちゃらちゃらとアクセサリーにしたりワッペンにしたりというようなイメージがあるからかも。
というのは半分ほどは冗談で、骨というものが無機的に思えるかもしれない。九相観図などでも、腐敗してゆく過程は面白く見るのだけど、白骨化してしまったらそこで終わりで、あとは自然の力で風化するのを待つだけ。そこから何か悍ましいものが現れ出る気配もない。
あとはこれも冗談みたいな理由ではあるけど、単純に、単に骸骨になってしまったときの風貌(?)がかっこよくないからかも。アンパンマンのホラーマンみたいに、髑髏は「怖い」だけではなくて、だいぶ滑稽な印象を抱かせる。口は笑っているみたいだし。もう少し凛々しかったら好きだったかもしれない…。でもつまりおしなべて人間の本質ってこういうことなのね。
部分的な、「白骨」というだけなら色々と妄想は膨らむのだけど。
と必ずしも展示のテーマに関心があったわけではないのだが、出向いたのはだからこそというべきかその髑髏の良さと魅力みたいなものを分かりたかったためというのがあった。
*
同時開催は劇団イヌカレーさんの個展と、駕篭真太郎さんの原画展。
劇団イヌカレーさんは「まどマギ」で知って気になっていた。「床下」がテーマ。可愛い。
駕篭さんの作品は初めてきちんと見た。丸尾末広に代表されるエログロナンセンスには明らかに耽美的な傾向があって、それを「悪趣味」の口実にできるというか、不快さと美とを混成させることによって罪悪感を解消してしまうような効果が得られると思うのだけど、同じような指向のものが直球の「ギャグ」でこられると(私にとっては)とんでもなくエゲつなく、曰く言い難い不穏な気持ちになる。風刺画と同じような効果かも。展示にあった中絶と水子をテーマにしたお話は不覚にも笑ってしまったが。
髑髏は死そのものの象徴でありますが、
身体と霊性をまだ残像させている生と死の狭間にある存在でもあります。
それゆえ髑髏は、死を意識しながら生きるメメントモリの象徴ともなるのだと考えます。
夜想は、まだ生に、この世に少しだけ足をかけている髑髏を、
簡単に言えば生きている髑髏をテーマに展覧会を行います。
[Artist]
相場るい児、金子國義、建石修志、トレヴァー・ブラウン
中川多理、野波浩、フジイフランソワ、丸岡和吾
守亜、山本タカト、山本直彰
劇団イヌカレー・泥犬「床下展」
2016年4月8日[金]〜5月9日[月]
「こんなにあたまばかり落っこちていたんじゃ、
どれがカネリコのあたまだか分かりゃしないわ!」
展示作品 -カネリコのあたま- より
ここは床下。ここには全てが降り積もる。
どれもみな等しい。
どれもみなくだらない。
お前の哀しみはネズミだけが知っている。
床下には何がいるか知っていますか?
ネズミ? 虫ケラ?
まあ、それも間違いではありません。
けれど、それだけではないのです。
ちょっと薄暗いけれど、よく目を凝らしてご覧ください。
床下にはいろんなお話達が、そっと息を潜めています。
——劇団イヌカレー・泥犬
劇団イヌカレーは自主製作のアニメーションからスタートし、
『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズの異空間設計やプロダクションデザインでも、
ダークファンタジーの感性をいかんなく発揮している。
作品を発表することを「公演」という。劇団らしい表現である。
ポップ感あふれるダークファンタジーの「公演」を商業アニメーションの世界に認知・定着させた。
「床下」には、「泥犬」のアトリエから生まれてくる、感性のエスキースが散りばめられる。
柱の後ろに、梁の上に、ほら、泥犬のダークでファニーな生き物たちが棲息しているよ。
——今野裕一
http://www.yaso-peyotl.com/ [2016/07/03]
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