2016/03/27

「DOLLY GIRL BY ANNA SUI×高橋真琴」伊勢丹新宿店本館2階





 
 
 
 DOLLY GIRL×高橋真琴。可愛すぎて悲鳴。
 
 ちょっと思いもよらない組み合わせだったけれど、確かにあってもおかしくはない。
 もたれそうになるくらいのこれでもかというキラキラ系乙女世界を、その過剰ぶりをきちんと保ちつつも見事にブランドのテイストに取り込んで、完璧にまとめあげるANNA SUIの技量に感服。

「NAKED MEN 1876-2016」成山画廊

 
美術手帖 2016年4月号
美術手帖 2016年4月号
posted with amazlet at 16.03.27

美術出版社 (2016-03-17)
 
 今月の美術手帖は「MALE NUDE」…男の裸体、特集。
早く取り寄せたいのだが、Amazonでは品切れ中。売れまくっているのか?
  
 
 九段下の成山画廊にて、「NAKED MEN 1876-2016」という展示が行われていた。
 ダイアン・アーバス、諏訪敦、グローデン男爵の少年ヌード、ピエール・モリニエ、三島の切腹写真などを中心に色々。単に「男性」の「裸体」というだけではなかった。
 
 
 
 今回の展示において「NUDE」ではなく「NAKED」を使ったのが、何か意味があってのことなのかどうか。諸々のことは美術手帖を読んでから考えたい。
 
  以下公式サイトより引用。

愛が剥き出しになっている状態を撮影している岡部桃、男性を裸にして撮影する野村佐紀子、捉えづらいもの、海、光、生命といった実は曖昧なもの、計り知れない無限なもの、物事の根源性の絵画化を試みている興梠優護はヌードのセルフポートレイトを制作しました。
ギリシャ神話を盾に官能的な少年ヌードを表したグローデン男爵、三島由紀夫は疑似切腹の様子を伝説の写真家、矢頭保に撮影させています。
昨年横浜トリエンナーレで注目を浴びたシュルレアリスト、ピエール・モリニエの女性に扮したセルフヌード、被写体の暗部を曝け出すダイアン・アーバスの作品、男性美の表現に長けた長谷川サダオの美しいドローイング等を展示致します。
近々作品制作のドキュメンタリーが放映される諏訪敦は謎の新作を発表します。
http://www.gallery-naruyama.com/[2016/3/27

「わが青春の「同棲時代」 上村一夫×美女解体新書展」弥生美術館


※右のポストカードの上下が逆である。


 大学一年の秋、某K先生の某授業にて、「同棲時代―今日子と次郎―」という映画を鑑賞した。70年代の邦画なんて観たのが初めてだったということもあると思うけれども、当時の私にとってこの映画のインパクトは大きくて、ずっと頭の片隅にこびりついていた。先日、書店の美術書のコーナーで見つけたこの展覧会の図録を、その表紙絵に惹かれて開いてみたら、タイトルにまさにある通りだがあの映画の原作の漫画の作者であったという。K先生はもしかして授業でこの原作者の名前に言及していたのかもしれないけれども、まるで記憶にはなかった。

 上村一夫。70年代に一世を風靡したが、若くして急逝し、没後の30周年として企画されたのが今回の回顧展である。

「哀しい女の業、
 渦巻く情念の炎、
  静かな狂気に潜む、底知れぬ心の闇……!」 

「甘美なる抒情、あふれ出す詩情、背徳のエロス..…」

 なんて少し気恥ずかしくなるようなワードが展覧会の概要には連なっているけれど、まさにそんなベタでわざとらしい言葉がそのままストレートに、過不足なく、彼の作品の魅力を言い表しているんじゃないか。
 まだ漫画を読んでいないので彼について詳しく語ることはできないけれど、絵を見ただけでも自分の趣味に合うかどうかくらいは大体わかるのであって。…こういうどうしようもなさが堪らないから、日本が好き…どうしようもなく…。

2016/03/20

「ファッション史の愉しみ―石山彰ブック・コレクションより―」世田谷美術館

 
 
 「ファッション史の愉しみ」展。神戸ファッション美術館からの巡回。服飾史研究の大家である石山彰のコレクションをもとに企画・構成されており、展示品は雑誌や書物、「ファッション・プレート」と呼ばれる版画が中心であるのに加えて、神戸ファッション美術館所蔵のマネキンが着た再現衣装も多数。展示数が多く、ひとつひとつをじっくり見て回ろうとすれば相当な時間がかかるけれども、18世紀の宮廷文化から革命を経て19世紀、解放の20世紀…と、主に西欧の都市におけるファッションの変遷を概観できる。(ファッションにおける19世紀の人々の「18世紀趣味」も、当時の雑誌を細かく調べていくことで色々と出てきそう。)また、当時における「エチケット」や「流行」、「趣味」といった概念がいかなるものであったかも、大まかに掴むことができる。後半には、日本における受容の章、「ファッション史」研究の歴史に焦点を当てた章も。ファッション史の勉強になるのはもちろんのこと、色彩豊かで繊細優美な華々しいイラストや衣装の数々は、それらをただ眺めて歩くだけでも心が躍る。
 
 今回の展覧会においては、その展示品がほとんどフランス、そしてほぼすべてが大人の女性のファッションにかかわるものであったというのは、そもそも個人のコレクションであるという点からしても、一度の展覧会としてのまとまりやおさまりのよさという点にしても仕方がないのだとは思うけれども、他のヨーロッパ諸国や男性ファッションの歴史も同時に知ることができたらよかったかもしれない。
 
 図録と読本。


2016/03/19

「幻想と頽廃のアンソロジー~世紀末から現在まで~」Bunkamuraギャラリー

 
 
 Bunkamuraギャラリーにて、 「幻想と頽廃のアンソロジー~世紀末から現在まで~」。
 
 今回の展示の特徴は、昨年行われた「幻想耽美」展のように現代の日本の「幻想耽美」系統の美術を集めたというだけではなく、19世紀末において西欧で生じた「デカダンス」の美術動向と、日本のエログロやお耽美なアングラ系カルチャーとを並置して、ふたつの地にまたがり、19世紀末から21世紀までという1世紀半近くの長い期間にわたる作品を展示しているという点にある。現代日本にみられる「幻想耽美」の系譜を辿り、その源流にまで遡るようにして。もっとも展示の構成は、西洋から日本へ、時代を下るように進んでゆくから、世紀末の西洋の画家たちのエッセンスが日本へと渡ってさまざまなかたちで狂い咲いていく…というようにも見てとれなくない。
 ビアズリーと夢二。ベルメールと伊藤晴雨。イオネスコと沢渡朔。モリニエと四谷シモン。…これらを一度に同じ空間で見られる機会もそうそうない。時代的にも今回展示されていた日本の美術家たちが西洋美術に少なからぬ影響を受けているという面があるのだから、両者の親和性が高いというのは当たり前ではあるのだが、その関係性をより深く探っていく余地はまだまだ大いにあるのではないかと感じた。 
 このような展示がこれまでどの程度行われてきたことがあるのか分からないが、同様の趣旨の展覧会がまたどこかで開催されて欲しい。少なくとも、これほどの錚々たる面々の「こっち系」の作品が一気に眺められるというのは、個人的には、贅の極み…。
 

 いくつか気に入った・気になった作家。

ロドルフ・ブレダン/マックス・クリンガー/フェルナン・クノップフ/エリック・デマジエール/フェリシアン・ロップス/ヨルク・シュマイサー/フィリップ・モーリッツ/山本六三/ピエール・モリニエ/日和崎尊夫/ポール・ヴンダーリッヒ/エルンスト・フックス/藤本蒼/中村宏/伊予田晃一/多賀新
  
 
 以下、BunkamuraのHPより引用。
 
 1890 年代から20 世紀初頭にかけた世紀末、不安定な社会情勢や新時代への急激な変化へのストレスが顕在化し、迫り来るあらたな時代の転換期の前兆にある種の頽廃的かつ虚無的な空気が醸し出された。デカダンス(=頽廃的)はヨーロッパで発生したアール・ヌーヴォー、象徴派、ラファエル前派、ウィーン分離派などに代表される社会通念から逸脱した表現キーワードのひとつであり、ジャポニスムの影響を経て、神話・聖書・歴史・古典などより引用され、より幻想的・神秘的・装飾的な表現様式となった。そしてそれらは終末の予兆をも示し、頽廃する世紀末を象徴する芸術運動となった。

 そして関東大震災と世界的な大恐慌を背景にした大正から昭和初期の日本でも、国全体の倦怠感や政府の硬直性からいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」が社会を席巻した。その潮流は戦後にも受け継がれ、保守階層、政治家、資本家など権威主義への反発から若者を中心にした「カウンターカルチャー」が起こり、これまでにない前衛的な表現が数多く登場した。その担い手としてアングラ演劇の唐十郎や寺山修司、暗黒舞踏の土方巽らが異端児として、反主流の美学を確立させた。

 いつの時代も表現者たちは常にモラルから逸脱し、新たな時代と表現の再構築を試みる。それは、実験性に富み刺激的であるが故、大衆の理解を得られず、さらなる頽廃的かつ背徳的な美しさへの探求心をかり立てるのだ。本展では既成概念や時代を挑発し続け、スキャンダルを巻き起こし、後世に大きな影響を残したビアズリーやバイロス、日本のカウンターカルチャーを牽引した横尾忠則や赤瀬川原平など、世紀末から戦後の日本まで、時代の主流から逸脱したフィールドで活動した国内外の作家を中心に版画・挿画本・オブジェ・ポスター・書籍など展覧販売する。  
【出展予定作家】
イオネスコ、クノップフ、B・ジョーンズ、バイロス、バルテュス、ビアズリー、ブレダン、ヴンダーリッヒ、ベルメール、モリニエ、モロー、モーリッツ、ヤンセン、ロセッティ、ロップス、赤瀬川原平、荒木経惟、池田満寿夫、伊藤晴雨、井上洋介、伊豫田晃一、北川健次、沢渡朔、篠原有司男、城景都、多賀新、竹久夢二、つげ義春、土井典、トーナス・カボチャラダムス、中村宏、成田朱希、土方巽、藤本蒼、山下清澄、山本じん、山本六三、横尾忠則、四谷シモン 他 
http://www.bunkamura.co.jp/gallery/exhibition/160302gensou.html[2016/3/19]

「カラヴァッジョ展」 国立西洋美術館


 
 
 カラヴァッジョの回顧展。こちらもボッティチェリ展と同様、日伊国交樹立150周年を記念して開催された。英語タイトルは、“CARAVAGGIO and His Time: Friends, Rivals and Enemies”。
 カラヴァッジョの作品は11点で、あとは英語タイトルにあるように彼を慕ったりその技法を模倣したり発展させたりした「カラヴァッジェスキ」と呼ばれる追随者たちの諸作品。ここでついに《ナルキッソス》にも会えた。《法悦のマグダラのマリア》は2014年に真筆と認められ、今回が世界初公開。
 展示は、「風俗画:占い、酒場、音楽」「風俗画:五感」「静物」「肖像」「光」「斬首」「聖母と聖人の新たな関係」「エッケ・ホモ」と、ジャンルやテーマごとに章立てされている。カラヴァッジョの作品にみられる特徴が強く印象付けられる構成であった。
 
 カラヴァッジョの作品を一気にこれほど見ることが初めてであったから、まずは彼の作品に面と向かい合うという鑑賞体験が嬉しかった。バロック、瞬間の美、光と影、内面の表出、写実主義…。その画風をあらわすには様々な言葉が用いられ得るのだと思うけれど、実際に目の前にしたことによる圧倒的な迫力は筆舌に尽くしがたい。
 あらたなジャンルである風俗画や静物画はもちろんのこと、案外、彼の特徴を知るには宗教画を見るのがよいのかもしれない。一時代前の宗教画と比べるとその差が歴然となる。最も信仰心の高揚した瞬間を捉え、シャッターを切るように画面に表出する。対抗宗教改革という背景もあり、画家は宗教画の表現方法を刷新したのであった。
 
 個人的に面白かった(というか、笑えた)のは、《トカゲに噛まれた少年》のあとに置かれた、確か「カニに指を挟まれた少年」といったようなタイトルの作品。少年(中年に見えるが)、片方の手が確かにカニに挟まれているのだけれど、もう片方の手でカニを持っていて、これはわざ挟ませているのでは等々と突っ込みを入れたくなる。
 驚愕した顔を連続で配置するのには、しかも二点目に、いかにも二番煎じ的なカラヴァッジェスキの絵を持ってくるというのには、やや悪意を感じてしまった、とまで言ってよいのか分からないけども。
 
 カラヴァッジョと関係ない些細な点で言えば、「斬首」の章のなかに、女性の切断された頭部の絵があったことが印象的であった。マッシモ・スタンツィオーネ《アレクサンドリアの聖カタリナの頭部》。斬首刑に処され殉教した聖女。絵に描かれた生首は、どちらかというと男性のイメージが強いように思っていたが、実際に女性のというのは珍しいらしい。そのこと自体が描かれる者としての女性の役割の限定性を表しているのだろう。
 
 本展覧会は、カラヴァッジョを紹介するコピーのおもしろさが気になってもいた。まず、展覧会の予告の、どこかのメディアが掲載した記事のタイトルにあった「かなりワイルドな天才画家」というもの。これはいったいどういうことだろうと思っていたが、展示を見て納得がいく…ような気がした。カラヴァッジョの作風というだけでなく、彼の性格と人生がまたワイルドなのであった。尊大だし、ナルシストの気はあるし、刀剣の不法所持で捕まったり、最後には殺人も犯した。芸術家には、さして珍しくもないことなのだろうが。
 
 公式のポスターのコピーでは、「ルネサンスを超えた男。」「ローマを熱狂させたロマンチック。」などと、やや妙である。ただ正直、この"妙"さが、カラヴァッジョの絵画に対して覚える、ちょっと間違えると吹き出してしまうような、不思議な特質をあらわしているかもしれない、などと展示を見て勝手に感じていた。

2016/03/04

「ボッティチェリ展」 東京都美術館



 日伊国交樹立150周年を記念したボッティチェリ展。日本での本格的な回顧展は今回が初とのことで、ボッティチェリの作品が20点以上展示されている。有名なものだと、《書物の聖母》や《美しきシモネッタの肖像》、《書斎の聖アウグスティヌス》なども。

 展示の構成は、当時の背景をあらわすような資料や小物の展示を随所に織り交ぜながら、大きく、ボッティチェリの生きた当時のフィレンツェを紹介する章から、ボッティチェリの師匠であるフィリッポ・リッピに焦点を当てた章、主役のボッティチェリ作品を中心とする章、そして彼の弟子であり、フィリッポ・リッピの息子であるフィリッピーノ・リッピの作品を扱う章、と時代の流れを追って展開するものであった。
 当然ながら互いに師弟関係、親子関係にある三者の作風は類似しており、しかし技法や表現に各々の特徴があらわれている。たとえば、当時においてボッティチェリの絵画は理知的で男らしい雰囲気を持つと評されていたのに対し、弟子のフィリッピーノ・リッピはより甘美であり技巧には劣る、などと言われていたという。

 ボッティチェリの描く女性たちの、どこか愁いを帯びているようにも見える硬質的な表情が好きだ。生気が無いようにさえ感じられるのに、それらが木々や花々とともに描かれると途端に、妖しく色めきはじめるのも。