2015/07/06

「幻想耽美―現在進行形のジャパニーズエロチシズム」展、トークショー(谷川渥・恋月姫・空山基) Bunkamuraギャラリー(と、人形についての覚書き)





Bunkamuraギャラリーで開催されていた、「幻想耽美―現在進行形のジャパニーズエロチシズム」展。現代の日本を代表するエロティック・アートの先鋭の方々の作品が揃う。
 現在の日本のエロティック・アートを概観するのにとてもよさそうな書籍があったのでメモとして。

☆相馬俊樹『魔淫の迷宮: 日本のエロティック・アート作家たち』ポット出版、2012年。
(タイトルにやや慄くが中身をめくったらとてもまじめな本であった。いつか手に入れよう。)

 関連イベントとして、美学者・谷川渥さん、恋月姫さん、空山基さんのお三方のトークショーもあり、参加してきました。(朝早く整理券を取りに行ったおかげで最前列を確保した!)
 トークショーの内容については、おそらく著作権の問題があるように思うので、取り上げられた話題のうちから個人的に特に関心の強かったトピックについて…と思って書き始めたら完全に少女論と人形論に偏ってしまった。


◆絵画に描かれた身体や、人形の身体について。「日本人離れ」の議論。谷川先生によれば日本人が肉体に対して持つコンプレックスによるものである(これらについては谷川先生の『肉体の迷宮』に詳しい)。この意識が歴然と存在していた時には、日本の人形において、顔は日本的、肉体は西洋的、という特徴を備えている作品が多かったが、最近の日本の人形については身体に対しても意識が向いているのではないか。
 確かに、日本人は他の国と比べても身体よりも顔をよく重視する傾向が強いというのは耳にするところ。人形にもそれが反映されているというのは興味深い。人形作家の制作する人形たちは、日本人がかつてコンプレックスとして隠そうとしていた平べったい、西洋的な理想美とは程遠い肉体を再現している。あたかも開き直るかのように。
 美術史的な意味における肉体コンプレックスについては男性についての話題が多いのかもしれないが、本展覧会に展示されるような現代のエロティックアートにおいて主題となるのは、女性の身体である場合が非常に多い。西洋人の身体に対して日本人女性が幼児に近い体型だと言われることがある、という事実と関連することかもしれないが、そこで肯定的に表現されるのは大人の女性へと成熟しきっていない身体、「少女性」である。なぜ少女なのか。これについては日本に特異な、女性による少女期愛好をめぐる少女文化あるいは男性による幼女愛をめぐるロリコン文化といった問題ともあわせて考えられるような気もする。(このふたつの系譜についてはいつかきちんと整理しなければならない。)

◆球体関節人形に関しては、谷川先生は日本の人形作家たちが制作する球体関節人形に対して疑問を持っているとのこと。というのも、ベルメールは人間の肉体には有り得ないところで分断し、球体関節を埋め込み、動かそうとすることで、身体のアナグラムを形成するというきわめて暴力的でスキャンダラスな試みであった。
 これに対して現代の日本における「球体関節」というものは人間の肉体における関節をそのまま球体として可動するものとしたにすぎない。暴力性がない(から、面白くない)。 
ちなみにこれに対して恋月姫さんは、「人形だから動かないと嫌」とおっしゃっていた。

 球体関節の問題は私自身、球体関節というものの奇怪な魅力に捕えられた日以来、ずっと考えている。確かに四肢が自在に動く球体関節人形は、ベルメール人形に比べてしまえば暴力性もエロス性も見劣りする…のかもしれない。
 しかしだからといって取るに足らないものと切り捨ててしまうと、球体関節がこれほど人形界に蔓延る理由が説明できなくなってしまう。そもそも、人間の関節と人形の球体関節とでは、見た目も、構造も、根本的に異なっている。人間の皮膚には、人形のような関節における切れ込みと断絶は存在せず、球体が露出してもいない。人形において、四肢や胴体は繋がっているとはいえ見た目としてはきれいに切断されている。球体関節は皮膚に覆われているのではなく、球体関節自体が関節以外の部分と同じ皮膚を持つ肉の部位なのである。

 人形作家が制作する作品としての人形だけではなく、SDをはじめとする愛玩用の人形たちにおいても球体関節で動く仕組みになっている。あらゆる人形が球体関節を持つのは、素材として動かすためには球体関節に頼らざるを得ない、あるいはポーズを取らせるというという便宜的な理由だけではなく、何か「球体関節」そのものに対する執着のようなものがあるようにしか思えない。技術の未発達の時代にはやむを得ずこの仕組みを利用したのかもしれないが(いや、でもベルメールからのインスピレーションを受けた四谷シモンさんが昨今の人形ブームの源流であるところからして、日本の人形作家さんたちがそもそも球体関節に対して全く無関心だった作家がいるとは思えないけれども)、仮に現在、見た目はビスクにそっくりであるが自由に曲げたり折ったりできる形状の素材(!)が発明されたとして、人形作家たちは球体関節を完全に捨て去ってしまうかと考えれば、もちろんそうする人もいるではあろうが全員がそうは到底思えない。球体関節を作るために人形を生み出す人というのがいてもおかしくはない。いまや球体関節そのものがフェティッシュと化している。
 人形においても球体関節ではないリカちゃんやBarbie、Blytheといった人形たちには深刻さとは無縁のどこかおもちゃめいたところがあり、バービー人形などは西洋人的なスタイルでセクシーとはいえても、暴力的なエロスとはかけ離れている(ように思う)。あるいは、実際に人間の女性を本物そっくりに再現したラブドールも、球体関節は存在しないものがほとんどである。生身の女性との直接的な性交渉を妄想するための道具として、本来有り得ないはずの「切れ込み」は不気味さを喚起こそすれ、「リアルな」妄想のためには妨げになるだけなのだろうか。

 男性に関しては分からないが、大人の女性において特に、女性のかたちをした球体関節人形に対する愛着を抱く人が多い傾向にあるように思う。ゴスロリやロリータファッションを好む女性が「人形のようになりたい」と発言しているのはよくみかけるが、彼女たちが「なりたい」人形は子どもの頃に遊んだリカちゃんやバービーではなくて、球体関節人形なのだ。ここ数年流行している「球体関節ストッキング」というのは、あれは一体なんなのか…、よく考えなくても奇妙な現象ではある。私たちはすでに自在に動かすことのできる関節と断絶の無い滑らかな皮膚に覆われた肉を持っているのに、なぜみずからあの不自然な球体関節を欲するのか。分断されたい、暴力的に犯されたい、というマゾヒスティックな、ある意味でナルシスティックな欲望によるものなのだろうか。それは現代社会の病理に冒された少女たちの変態的で倒錯的な欲求として片付けてしまうべきなのだろうか。…このあたりは身体論はもちろんのこと少女というテーマと関連させて考えられることだと思う。 


◆近年しばしば見かける、死体を模した人形とは何なのか。人形というのはすでに死んでいる(生命をもたない)存在であるのに、それに加えてなぜ人形によって死を表象するのか?(二重の死?)。
これについてもよく感じることのあるものだった。死んだように見える人形。瞳孔の開き切った天野可淡の人形をはじめとして、永遠の眠りにつくかのように見える恋月姫人形まで、死の薫りを漂わせる人形の系譜は連綿と受け継がれ、現在では人形をさらに痛め付けるようにして苦痛を味わわせるといった、(それこそ)暴力的とも言える工夫で死を表現している人形作品というのも存在する。あとは、これは少し毛色は違うがメズコトイズから出されている、死亡証明書付きで棺桶に入ったリビング・デッド・ドールシリーズ。ああなぜ私たちはこんなにも人形を殺したがるのだろうか…。

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