2016/02/25

「東學女体描写展 『戯ノ夢 genom 其乃弐』」ポスターハリスギャラリー



 東學さんの個展、ポスターハリスにて。普段は墨絵の制作が中心を占めるそうだが、今回の個展には女性の裸体に墨で模様を描き、それを写真におさめたものが多数展示されていた。 
 墨で身体に模様を描き出す、というとその響き通り刺青が思い浮かぶけれども、タトゥーや刺青が皮膚を抉り、インクが彫り込まれて、あるいは刻み込まれているものだとしたら、今回の作品群のように墨で描かれた模様は皮膚の上に「浮かび上がって」いる。植物は花、葉、虫は蝶や蜘蛛、蛇などの爬虫類に、龍や幻獣などのモティーフも。と単語だけ並べ立てるとものすごくコテコテの893っぽいものを想像できてしまうかもしれないが、そうではない。確かに凄艶ではあるのだけれども、淡く繊細でもあり、幽玄にさえ思われる。生と死に跨っている。

 今回の個展タイトルにも「女体」という言葉が含まれているように、東さんの作品制作のテーマは一貫して「女」であるそう。これはネット上のインタビュー記事で見たのだけれど、そこでの「女」は、単に綺麗で美人というだけではだめで、「毒」がなくてはならない。
 異性愛者の男性がエロティックに撮った女性の写真には、その描き手のモデルに対する欲望が投影されているはずで、今回の作品なども思い切りそのような欲望が露わではあるように思う。しかし不思議なことに、彼の作品のファンには異性愛者の男性だけではなくて、女性が多い。
 男性の描く女性に女性のファンがつくというようなことはよくあると思うけれど、そこで成り立っている欲望の関係図がいかなるものであるかは気になる。厳密に考えれば、モデル、撮影者、鑑賞者の三者間の関係だから複雑だけれど、一般的に想定される男性⇄女性の二項間に閉ざされる「正常」な構図は乱されている。その要因のひとつがおそらくは制作者がモデルに見出して、あるいは与えた毒、というものなのかもしれない。そういう毒には耐性の無い、あるいは好まない人間がこの女体を見たならば、「女」として欲情するというよりも、異形の化け物を見たかの如く腰が引けてしまうのではなかろうかと思う。まあ、それって単純に、好みの問題ということだけれども。


 東さんのこれまでのお仕事も。

天妖―東學墨画集
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2016/02/17

「建築家フランク・ゲーリー展 "I Have an Idea"」21_21 DESIGN SIGHT

 
「アイデア」というKWを軸として構成されたフランク・ゲーリー展。
シンプルでありながら工夫が凝らされており、とても見やすく楽しめる展示だった。
 
 







2016/02/09

「英国の夢――ラファエル前派展」Bunamura ザ・ミュージアム







 ラファエル前派。この類の絵の世界に手放しで入りこんでゆけるような心はもう残っていないかと思っていたけれど、目の前にしてしまえば知らぬ間に、吸い寄せられている。絵画を通して夢を見る。それも、何よりも「美」に捧げられた…。いかに本を読んで知識を増やそうとも、色々と余分なことを考えるようになっても、純粋な非日常へと耽溺する体験を得ることが、絵画に触れる最も根本的な、最大の目的のひとつであったし、それはきっとずっと変わらない。
 ただ「美」のために他のすべてが尽くされる。美を生むためには手段を択ばぬし、慣習も規則も擲つことは厭わない。物語性の排除。装飾や建築の折衷主義。

 今回の展示はリヴァプール国立美術館所蔵の作品群から成る。ミレイ、ロセッティ、ムーア、レイトン、ハント、バーン=ジョーンズ、ウォーターハウス。
 19世紀前半英国の功利主義と想像世界の葛藤…という導入の解説によって誘われた空間に、まずあらわれるのはやはりミレイである。何年前のことであるか忘れたが、あのオフィーリアと、かつて同じ展示空間で対面したときのことを思い出す。自分がミレイの世界に完璧に没入することがもはやできなくなりつつあるのは哀むべきなのか喜ぶべきことか分からないが、それでも彼の作品が「乙女の憧れ」の世界であることには変わりないし、それに浸ろうとすることもできる。
 古典古代をテーマとした章ののち、戸外の情景に焦点を当てた章に続く。
 最後の象徴主義の章にもはいれば、徐々に負の色が濃度を強める。夢の世界であることに変わりはないが、画面には影が落ち、靄がかかり、重みを増す。死と眠り。内面と情念。ここに飾られていたいくつかの作品からだけでも、時代が徐々に世紀転換期に向かいつつあるようすがうかがえた。

 

・折衷主義についてのワイルドの言葉。絵の構成のため様々な建築、装飾の様式から取り入れて構成する。ムーア「考古学が始まるところ、歴史は終焉する」。題材は特定の物語、歴史に取材するのではなく、また人物にも何かの意味があるのではなく、ましてや寓意や教訓などあるはずもなく、色と形を装飾的に組み合わせることで美を極限まで追求する。
・物語性を排除するということは時間性も失われるということだと思うが、ラファエル前派において「時間」がいかなる扱いであったのか。
・当時のイギリスの風景画は「近さ」を特徴とする。天気の移り変わりへの関心。また人類学の記録作成の手法の発展などと並行して、田舎社会への関心が強まりつつあった。

2016/02/07

「ガレの庭 花々と声なきものたちの言葉」東京都庭園美術館、講演会「ガレの庭 自然と象徴」




 
 庭園美術館のエミール・ガレ展「ガレの庭 花々と声なきものたちの言葉」。
 展示作品は北澤美術館所蔵のものがほとんどで、他はオルセーに所蔵された下絵やデッサン。庭園美術館をガレの庭に見立て、自然光の差し込むなかでガラス作品を見る、ことが展示の趣旨のひとつであるという。展覧会のテーマからはガレの「植物」愛と「象徴」にフォーカスを当てているようにも思われるのだが、どちらも展示の1章分に割り当てられているだけで、特に突っ込んだ解説などはなかった。
 あくまでこのガラス工芸家に自分が興味を持ち始めてからの感覚だけれど、日本におけるガレの人気はやはり尋常じゃない。ここ1,2年が特別にそうだったのかもしれないが、企画展の数が多過ぎる気がする。今回の展示もお年を召した方々を中心に、来訪者は夢中になって眺めていた。私もガレは好きだが、作品それ自体というよりもガレという人間に興味を引かれるという部分が大きい。
 嬉しかったのは、北澤美術館のいつかの展覧会カタログで見て一目惚れしていた《フランスの薔薇》を見ることが叶ったのと、あとは《蘭文八角扁壷「親愛」(カトレア)》という、蘭の、表に生きた姿、裏に枯れた姿を描くことで生死の表裏一体性を表現したという作品を見られたこと。こちらはロジェ・マルクスに贈られたらしい。作品名を忘れたが、花器にべったりと貼り付いた大きな蝉は、リアルな蝉が巨大化したようで、なんだかGみたいにも見えた。どんな花を活けたら似合うのだろう…。

 展示についての覚書。
・日本の焼物(伊万里焼)の模様をガラスに反映させていたものがあったのだが、ただガラスに写し取るだけではなく、西洋の装飾、ペルシア風の小花を加えるなどただの「模倣」は行わず、ガレ流にアレンジを加える。

・ガレの植物への関心は生命全体を繋ぐ生物の連鎖へ向く大きなスケールからなる。花の仕組み、生態、種の進化に対する理解が深まるにつれて、作品に投影される姿も光、大気、風邪など生育環境を取り込んだ表現へと移行する。

・葉脈と血管とのアナロジー。
・ガレが自らを「打ち震えるトンボの恋人」(「打ち震えるトンボ」というのは多分、V・ユゴーの言)と称していた。


 今回の訪問の大きな目的のひとつであった講演会は、北澤美術館の主任学芸員である池田まゆみさんによる。テーマは「ガレの庭 自然と象徴」。興味深かった点を箇条書きで記しておく。

・1868年のパリ万博ではバカラが金賞を受賞する。ガラス工芸や香水瓶などでフランスの先を行っていたイギリスの優位が転倒し始めたのがこの時期。

・菊のモティーフについて。菊は本来はヨーロッパには生育しておらず、日本からの取り入れたことによって一躍花としての人気を集める。カマキリもヨーロッパには存在していたもののそれを芸術に取り入れはじめたのは日本の美術工芸流入の影響が大きい。

・ガレはガラス工芸の地位を「芸術」へ高めるためにあらゆる手段を取る。そのひとつが、高貴な芸術に必要とされる目に見えない「観念」を象徴的にあらわすというもの。
 その「観念」のなかには「愛国心」もあった。当時のダヴィドやドラクロワに代表されるような物語画や歴史画による愛国心の創出が、ガラス器において試みられている。

 その方法のひとつが、モティーフを利用したもの。分かりやすい例でいえば、人物のシルエットを描いたものがある。ロレーヌ十字とアザミの花は、ナンシーの街が位置するロレーヌ地方の抵抗をあらわしている。
 花のモティーフを通じて表出する場合もある。《フランスの薔薇》にあらわれている薔薇は「ロサ・ガリカ」という品種であり、当時ドイツ軍に占領されていたサン・カンタンの山、丘の上にのみ咲く花であったという。

 また、より直接的な方法としては、詩や文学からの引用をガラスに直接刻みこむものもある。「ものいうガラス」と呼ばれ、賛否両論はあったようであるが、教養の深かったガレの文学に対する傾倒を見てとることができる。

 愛国心以外には、イヌサフランという植物を用いることで「キリストの復活」をあらわしたものや、短命のキノコで「命のはかなさ」や「再生」を表現。

・植物に関して。植物図鑑の科学的な描写には人間の魂が不在なのであり、象徴的な描写を行うことで自然に内在された「真実」を表現しなくてはならない。象徴とは、ひとつのイメージによってある観念を呼び起こすことである。

・19世紀末、ガレの作品はどのような人々が購入していたのか?実用性の高いバカラなどとは違い、ガレのガラス工芸はいわゆる「objet de fantaisie(趣味物)」であった。新興の中産階級や元貴族の中でも新奇性を好む人々だったのではないか。
・高島北海がガレのジャポニスムに影響を与えたとされることが多いが、ガレのジャポニスムは父親の代からすでに存在している。北海との交流はむしろ植物関連に大きくあらわれた。


 「自然と象徴」、というテーマは講演会の後半で少し触れられただけであったけれど、もっと深く掘り下げてみなければと思う。

2016/02/05

「象徴の幻視とイマージュの遊泳者」ヴァニラ画廊



ヴァニラ画廊の地下室展示、「象徴の幻視とイマージュの遊泳者」。シュレーダー=ゾンネンシュターンと、ハンス・ベルメール、ウニカ・チュルン。

■展示室A:フリードリヒ・シュレーダー=ゾンネンシュターン

 精神病院の入退院を繰り返し、同じ精神病患者の描く姿に触発されたことをきっかけに、自らも40歳を過ぎてから初めて筆を取った。Wikipediaによればゾンネンシュターンはドイツ語の「太陽(Sonne)」と「星(Stern)」の意味であり、みずからを「月の精の画家」と称したという。

 経歴からしても典型的といってよいアウトサイダー・アーティスト。そのような画家の常として曰く言い難い作風であって、作品の感想なども到底一言で言い表せるような類のものではないのだが、特徴的なモティーフとしては、女性身体、特に胸と臀部の過度な強調。飛行機。虹。渦巻。木。蛇。目。牙の揃った口。ソーセージ。動物。などなど。
 謎めいた意味を纏わせた象徴であるか、あるいは無意味な装飾から成っているようにも見えるイラストもあれば、何か物語の一場面を描いたように見える作品もある。もっともその話の脈絡はほとんど掴めない。
 全体を通して特に目に付くものといえば、ハートのモティーフであるかもしれない。彼の作品にはあちこちに多用されているけれども、記号化されて毒気を抜かれたキュートないわゆるハート型(♡)ではなくて、この記号の原型であるとされる心臓やヒップのかたちの生々しい名残がある。あるいは胸とも言えるのかもしれない。少なくとも画家の、女性の身体に対する何かしらのオブセッションのようなものが感じられてしまう。
 体のひとつひとつの部位が歪められ変形され、また各パーツがあちこちに転移しているという点で、ベルメールに見られるような身体のアナグラムに通ずるところがある。時期的にもシュルレアリスムの系統に属するとされるのだろうか。


■ 展示室B:ハンス・ベルメール×ウニカ・チュルン

 ベルメールとウニカの作品。両者の作品が同じ狭い空間に並べられると、どうしてもふたりの関係に思いをめぐらせずにはいられなくなってしまう。

 ベルメールによって撮影されたウニカの写真を見たことはあっても、彼女自身の作品の実物をよく見たのは初めてであるかもしれない。ベルメールに教えられたシュルレアリスティックな方法でこれらの絵を描いたころには、彼女にすでに精神を蝕む病の徴候があったのだろうか。
 数ミリ平方メートルの領域が無数に並ぶ様子はさながら鱗か細胞のようであり、その中に黒点を1つずつ描きこんであるものは、見開いた目玉にも見える。そのような鱗と細胞から構成される不定形の「かたち」は、時にその一部に人の顔を浮かびあがらせていたり、その「かたち」全体が何かの生き物に見えたりもする。
 ウニカは詩や小説も執筆していることでも知られているけれども、ひとつは邦訳もあった。

ジャスミンおとこ―分裂病女性の体験の記録
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 ハンス・ベルメールの作品はロートレアモン『ポエジー』の挿画が中心。描かれた題材は題材であるけれども、いずれもとても穏やかで繊細な、美しい作品。彼の暴力的な人形写真のイメージからはあまり想像がつかないかもしれない。
 ひとつ特に目に留まったのは、少女の横顔が水の中へと溶け込んでゆくような姿を描いた淡い色の絵。ベルメールも、こんなにも感傷的で儚げな絵を描くことがあったのかと少し意外な気もした。

「天野可淡展」マリアの心臓

 2015年11月21日。マリアの心臓へ。京都は大原。

 好きな画家の絵画を見るときに「会いに行く」という言葉を用いることがあるけれども、何にもまして人形とは「会いに行く」ものなのだと思う。新幹線に乗り京都まで来たのも、愛しい子たちのことを思えば少しも遠いとは感じられなかった。
 大原の地は高校の修学旅行の時に三千院と寂光院に行って以来だから久々である。以前来た時に感じたように心の安らぐところだった。運良く、天候にも恵まれた。

 三千院へ続く道から逸れる径を入り奥へ進むと、先ほどの観光地らしい賑やかさが嘘のように、人の気配がふと消えて、一軒の古民家にたどりつく。この家がどのような経緯で、人形たちの住むところとなったのかは気になるところではある。自転車の隣でお出迎えしてくれる少年や、玄関の扉の隣にかけられた看板に、何かを嗅ぎ取るということがなければ、この家の内部がどうなっているかなどだれもきっと想像もつかないだろう。
そっと扉を開ければ、もう随分と長いこと欲し求めてきた、あの空気…。閉館したのが2011年、もう4年も経過していたのか。
 展示室には所狭しと並べられた、西洋のアンティークドール、市松人形、文化人形、現代人形作家の作品の数々。民家一軒分の広さをすべて埋め尽くすありとあらゆる種類の夥しい数の人形たちがそっと鎮座して、こちらを見つめている――いくら多かろうと気圧されこそしないけれども、空気の密度が異様であることを五感が脳に伝えてくる。絵画やイラスト、写真、家具まで含めて全てがその空間を統一的に創り上げているのは、渋谷にあったマリアの心臓のときと同じ。ただ、今回は日本家屋の古民家であるから、畳の上にアール・ヌーヴォー調の椅子、その上に中国風の小坊主…などと和も洋も混在しているというのは新鮮だったけれど、それが奇妙にも馴染み落ち着いていて、人形たちも居心地がよさそうである。

 一階の展示室に静かに眠っていた、「嫉妬」と題された天野可淡の少女人形は、その演出も含めればおそらくすべての展示作品のなかで最も大きなものだったろう。夢の中で何を怒り、妬み、呪い、あるいは哀しんでいるのか。演出もアーティストの方の手になるものであるようで、空恐ろしくなる迫力は見事というほかはない。
 隣の部屋には、恋月姫の天草四郎も。たしか、初対面。
 またひとつの部屋には、文化人形と市松人形だけが大きなものから小さなものまでひたすらぎっしりと並んでいた。人形たちの前には、花魁を撮ったモノクロの写真が幾枚も並べられているのには何かの意図があってのことか。

 一階から掛けられた梯子を上ると、今回の企画展の会場でもある屋根裏部屋の展示スペース。可淡の人形たちが出迎えてくれる。これまでの可淡作品のレアさを考えれば、信じられないくらいの数の子たち。たしかに、これほど集まる機会なんてもう二度と来ないかもしれない。

 屋根裏の構造上、展示空間内を移動するためには、腰をかがめて、時に手をついて梁の下を這うようにして潜る必要がある。必然的に、お人形と同じ高さに目がいく。ひとりひとりに、じっと目を合わせる。とはいっても彼/彼女たちの視線は、どこか違う世界を、もしかしたら彼の世へと向いているから、けっして私の目を見つめ返してくれることはないのだけれど。
 この世の幸などとは無縁であるだろう表情を浮かべた、可淡の人形たちはいつも私に、悼みとも憐れみともつかぬ、胸狂おしくなるような感覚を呼び起こす。

 部屋の一番奥、鏡のとなりにいた少女に、どうしようもなく引き寄せられてしまった。叶わなくて恋しさだけが募るのは嫌だから、たとえ運命的な出逢いだと感じるような子に会ったとしても、人形に対して、またいつかどこかで会えるかしら、とは言わないようにしている。でも、お別れをするのはとても名残惜しかった。どこへ還ってゆくのだろう。きっとまた、写真におさめられたあなたと、本のなかでお話ができたらいい。





2016/02/02

「清水真理 作品集出版記念個展 「Wachtraum~白昼夢~」」スパンアートギャラリー



 清水真理さんの個展。
「アリス・イン・ドリームランド」の映画は残念ながら劇場公開時には見ることができなかったが、それに出演していた人形たちが何体か。黒色すみれのBGMが似合う。
 清水さんの作品は、「目」が好きなのである。澄み切って、きらきらした、ガラスの瞳。

 久々に銀座人形館へも立ち寄った。あまりに恋月姫作品らしい少女の人形3体に、目が吸い寄せられて離れなくなりながら、ソファに無造作に投げ出されているからまさかとは思って、だけど聞いたらやはり、恋月姫の作品だった。しばらくお話した。