2015/07/25

「アール・ヌーヴォーのガラス」展 パナソニック汐留ミュージアム




 アール・ヌーヴォーのガラス展。デュッセルドルフ美術館のゲルダ・ケプフ・コレクションの展示。
展示は2部構成で、第Ⅰ部 パリ、第Ⅱ部がアルザス・ロレーヌ地方。

 第Ⅰ部のパリのガラス工芸は、作品における東アジア、とりわけ日本からの影響が強調されている。実際にこの展示においてはモチーフは竹、双鯉、キクなど日本で作られたのかとも見紛う作品ばかりであったけれど、じっさい、この時期のパリのガラスって本当にここまでオリエンタリズム・ジャポニズム丸出しだったのだろうか。作家はウジェーヌ・ルソー、アベール兄弟、ウジェーヌ・ミシェルなど。
 第Ⅱ部のアルザス・ロレーヌはナンシー派の定番どころが主であり、エミール・ガレは展示室のひとつを占めているほどの作品数。他はドーム兄弟、シュヴェーラー商会、デズィレ・クリスチャン、アンリ・ベルジェ、ポール・ニコラ、ミュレール兄弟など。自然、特に植物をそのまま写し取りガラスの中に閉じ込めるかのような表現はナンシー派の特徴であり、作家によって抽象性の度合いや技法など表現方法はさまざまでありながらいずれの花や葉、茎も美しい。変わり種でいえば、甲虫やカタツムリなどの虫や蛇、キノコなど。それから目についたのはガレのタコや水棲動物たちが表れた作品。そうか、ガラスは透明だから、水との神話性が高いんだ…と今さらのように気づく。まるで水面から顔を出しているようなのだもの。

 いずれの作品も基本的にはケースに入れて陳列されていたけれど、中には照明を工夫して、その明るさや当て方を調節しているものもあった。人工的な光に照らされたガラスは様々に模様や色の出方を変化させていたけれど、本来の工芸品の在り方のように、部屋の中に生活の一部として存在していたならば、部屋に射し込む太陽の光を受けて、あるいは夜の暗がりにおいて移ろいゆく表情を愉しむことができるのだろう。もっといえば彼らの本来の(?)用途として、お花を活けてあげたい。ガラスの植物と生の植物とのコラボレーション、植物フェチの人間にとっては夢想するだけで幸福な気分。

 今回の展示のコレクションはゲルダ・ケプフさんというのは実業家の女性によるもので、彼女は19世紀末のガラス工芸を蒐集していたという。19世紀末という時代に思い入れがあったわけでも、文学や絵画がとりわけ好きだったというわけでもない。ただガラスの作品に惹かれてコレクションをしているうちに、いつしか数が大きくなっていった―。蒐集の途中から、作品にコンセプトを設定するようになってゆく。趣味から始めて、これほどまでに充実させることができるとは、何かに憑かれるってすばらしい。

 それから、パナソニックのミュージアムは規模はそれほど大きくないながらも展示の要素が凝縮されていて身の引き締まる空間であると再びの訪問で実感した。おそらくパナソニックのなかにあるからというのがあるだろうが、少し気を利かせた可愛らしい展示がかならずひとつあるようで、今回もガラスの花器に描かれた三味線(かな?)の奏者が演奏をしている姿が映像で壁に投影されていたところがあった。「アール・ヌーヴォーとメディア・アートの融合」とのことだったけれど、微笑ましくてつい見入ってしまう。(そしてガラスとプロジェクションといえば独身者機械、と要らぬことも思い出したのでした。)


 今回の展覧会図録にはエミール・ガレに焦点を当てた論考が掲載されていたので、購入はしなかったけれど、大学が早く図書館に入れてくれることを祈る。

「高橋コレクション展 ミラー・ニューロン」東京オペラシティアートギャラリー




精神科医であるコレクター・高橋龍太郎さんのコレクションの展示。現代美術にはまったく明るくない私でさえも知っている作家さんの名前がずらりと並んでいたから、現代日本を代表するアーティストのオールスターの作品が集結していると言っても良さそうだった。
 草間彌生、森村康昌、名取晃平、村上隆、横尾忠則、会田誠、やなぎみわなど挙げてゆけばきりがない。1フロアの広々としたスペースの展示室をめぐってゆき、順に並べられた作品と向かい合う。観ていて感じたのは、ひとつひとつが重たくて、ただ漫然と眺めて歩いているだけでも頭に相当な負荷がかかるということ。作品を対象として観察するというのではなく、自らの身体も巻き込まれてゆく、精気を攪乱されてゆく感じ。モダン・アートってこんなに迫力のあるものだったのか。会場を出た時には脳と精神の満たされた疲労感にぐったりとしてしまったけれど、それが初めての感覚のように心地好くて、なんだかクセになりそう。


展示の最後、ホールにあった撮影可の草間さんの作品。


 この展覧会が個人によるコレクションであったこと、そのコレクターが精神科医という職業であることは注目すべき点だろう。作品の一つ一つを私が「重い」と感じたのにもそこにひとつの要因があるのかもしれない…とも思う。それから、私自身は現代における芸術の在り方や流通形態といったことを詳しく把握してはいないのだけれど、受容史研究の現在、のようなものを見ているような気がして、覗き見をするようなうしろめたさと好奇心とをいっぱいに味わった。
 今回集められた作品たちをとりまとめて付されたキーワードは「ミラー・ニューロン」であった。この単語を耳にするだけで頭に浮かぶ時代はモダン以外の何物でもなかったが、しかしそれが絵画の古典的な根源のひとつである「鏡」、そして「模倣」を想起させる点は非常に興味深い。過去との連続性。現代アートにも、もっと積極的に関心を持ってくるべきであったという反省が本展覧会を見た大きな収穫の一つでもある。

今回新たにタイトルに選ばれた「ミラー・ニューロン」とは、他者の行動を見て「鏡」のように自分も同じ行動をしているかのように反応する神経細胞を意味し、それは他者との共感や模倣行動をつかさどるとも考えられています。本展においては、日本の現代アートに広く見られる「なぞらえ」の作法が、「模倣」「引用」などを重要な手段とする現代アートの世界的潮流だけでなく、「見立て」や「やつし」といった伝統的な日本の美意識とも通底していることを意識させるキーワードとなります。


しかし人間にとって最大の模倣は自然への模倣だろう。アリストテレスは、芸術は自然を模倣するとして、模倣(ミメーシス)を人間の本質と高く評価した。1980年代以降現代アートは模倣と引用によるシミュレーショニズムの影響なくしては語れない。しかしシミュレーションといえば、日本には本歌取り、見立て、やつし等、千年の歴史がある。とするなら日本の現代アートシーンは、正面に西欧のアートミラーがあり、背後に千年の伝統ミラーを見据える合わせ鏡の只中にあることになる。
それは世界のアートシーンのなかの稀有な痙攣する美になるのか。はたまた無限に映し返される煉獄に過ぎないのか。 
http://www.operacity.jp/ag/exh175/j/exh.php [2015/7/25 アクセス]

「ボッティチェリとルネサンス フレンツェの富と美」 Bunkamura ザ・ミュージアム


 少し前のことになるので思い出しつつ。惰性で行ったようなところもあったのだけれど、思いのほかとても楽しむことができたし勉強になった。最終週の土曜日だったのに人もそれほど多いというわけではなく、混雑に苛立ちを覚えることもなく観て回る。
 ボッティチェリの展示も一応何点もあるけれど、どちらかというと展示品を通じてルネサンスの経済と風俗について見てゆくというのがこの展示の趣旨だったように思う。そしてそうしたやや教育的な方向性は案外功を奏していたし、へたをすると回顧展のようにひとりの画家の作品だけを飾ってゆくよりも観る人にとっての印象は強く残るかもしれない。当時流通してた金貨と偽造貨幣から始まって、世界の拡大を示す航海図、フィレンツェの豊かさを示す豪奢な生活と奢侈禁止令後の絵画の変遷。パトロンとしての銀行家の存在。宗教や婚礼の様子をあらわすような絵画作品や日用品の展示へと移ってゆく。

 肝心のボッティチェリも、その作品をまとめて何点か見ることができたのももちろん貴重なことである。メディチ家の最盛期から没落、そしてサヴォナローラによる「虚栄の焼却」へと、フィレンツェの時間が経過するに合わせて、彼の作風の変化が見て取れる。あと、《ヴィーナスの誕生》の、裸体のヴィーナスだけが抜き出されて描かれている作品があった。背景は無地。あの背景から抜け出してきたにしても存在感がある。

 個人的に気に入ったのは、14世紀のイタリアの工房で作られたという鍵。当時、鍵は富、権力、権威の象徴とされていて、この時代にはデザインも洗練されるようになったという。

2015/07/07

「幻燈展 プロジェクション・メディアの考古学」 早稲田大学演劇博物館



 早稲田の演劇博物館で行われていた、「幻燈展 プロジェクション・メディアの考古学」。
 開催されるという報を目にしてからというものずっと行きたかった展覧会で、用事で早稲田に寄った機会に訪問する。演劇博物館自体、その中に入るのも実は今回が初めてであったけれど、静謐な重厚感のある建物で居心地がよかった。

 企画展である「幻燈展」はとても楽しい。幻燈の歴史を解説するパネルがある。展示品は幻燈にまつわるあれこれ。映し出すための機械、ステンドグラスのように裏から白い光を当てる色の付いた透明な板(あれはなんという名前なのだっけ)。実際にスライドを入れて投影してみたりと、触って動かしてみることができるような体験型のものもある。
 それにしても幻燈、名前からしてすでにステキすぎだけれど、実際に目にすると雰囲気がある。現在でも幻燈の仕組みを用いてお芝居をするような劇団もあるらしいが、夜の暗い日本家屋の一室や神社の境内で上映会をしたらどれだけわくわくすることだろう…。
  
 図録も非常によく読みごたえがありそうだったので覚えておく。
☆『幻燈スライドの博物誌 プロジェクション・メディアの考古学』青弓社、2015年。

幻燈スライドの博物誌: プロジェクション・メディアの考古学
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 本展示のイベントで絶対に行こうと思っていた、幻燈上映会付きのシンポジウムを完全に逃すという失態を犯したので、代わりに(?)会期中にもう一度行っても良いかなと思っている。

 あとは今回展示で扱っているものとは別に“幻燈”や“プロジェクション”というワードによって思い出すのは、2年生のころの独身者機械ゼミで扱ったジュール・ヴェルヌの『カルパチアの城』に出てくる、ラ・スティラという歌姫と、初音ミク(ライブの際に3Dで出現するあれ)だろうか。芸術学の授業で、スクリーンに光を投影する仕組みから、最近のスマホやらPCのディスプレイというものはそれ自体が発光体となっていて…という話を聞いていたことも。次元の違う話ではあるけれど、このテーマについてまとめてみるのは面白そうだ。

2015/07/06

「幻想耽美―現在進行形のジャパニーズエロチシズム」展、トークショー(谷川渥・恋月姫・空山基) Bunkamuraギャラリー(と、人形についての覚書き)





Bunkamuraギャラリーで開催されていた、「幻想耽美―現在進行形のジャパニーズエロチシズム」展。現代の日本を代表するエロティック・アートの先鋭の方々の作品が揃う。
 現在の日本のエロティック・アートを概観するのにとてもよさそうな書籍があったのでメモとして。

☆相馬俊樹『魔淫の迷宮: 日本のエロティック・アート作家たち』ポット出版、2012年。
(タイトルにやや慄くが中身をめくったらとてもまじめな本であった。いつか手に入れよう。)

 関連イベントとして、美学者・谷川渥さん、恋月姫さん、空山基さんのお三方のトークショーもあり、参加してきました。(朝早く整理券を取りに行ったおかげで最前列を確保した!)
 トークショーの内容については、おそらく著作権の問題があるように思うので、取り上げられた話題のうちから個人的に特に関心の強かったトピックについて…と思って書き始めたら完全に少女論と人形論に偏ってしまった。


◆絵画に描かれた身体や、人形の身体について。「日本人離れ」の議論。谷川先生によれば日本人が肉体に対して持つコンプレックスによるものである(これらについては谷川先生の『肉体の迷宮』に詳しい)。この意識が歴然と存在していた時には、日本の人形において、顔は日本的、肉体は西洋的、という特徴を備えている作品が多かったが、最近の日本の人形については身体に対しても意識が向いているのではないか。
 確かに、日本人は他の国と比べても身体よりも顔をよく重視する傾向が強いというのは耳にするところ。人形にもそれが反映されているというのは興味深い。人形作家の制作する人形たちは、日本人がかつてコンプレックスとして隠そうとしていた平べったい、西洋的な理想美とは程遠い肉体を再現している。あたかも開き直るかのように。
 美術史的な意味における肉体コンプレックスについては男性についての話題が多いのかもしれないが、本展覧会に展示されるような現代のエロティックアートにおいて主題となるのは、女性の身体である場合が非常に多い。西洋人の身体に対して日本人女性が幼児に近い体型だと言われることがある、という事実と関連することかもしれないが、そこで肯定的に表現されるのは大人の女性へと成熟しきっていない身体、「少女性」である。なぜ少女なのか。これについては日本に特異な、女性による少女期愛好をめぐる少女文化あるいは男性による幼女愛をめぐるロリコン文化といった問題ともあわせて考えられるような気もする。(このふたつの系譜についてはいつかきちんと整理しなければならない。)

◆球体関節人形に関しては、谷川先生は日本の人形作家たちが制作する球体関節人形に対して疑問を持っているとのこと。というのも、ベルメールは人間の肉体には有り得ないところで分断し、球体関節を埋め込み、動かそうとすることで、身体のアナグラムを形成するというきわめて暴力的でスキャンダラスな試みであった。
 これに対して現代の日本における「球体関節」というものは人間の肉体における関節をそのまま球体として可動するものとしたにすぎない。暴力性がない(から、面白くない)。 
ちなみにこれに対して恋月姫さんは、「人形だから動かないと嫌」とおっしゃっていた。

 球体関節の問題は私自身、球体関節というものの奇怪な魅力に捕えられた日以来、ずっと考えている。確かに四肢が自在に動く球体関節人形は、ベルメール人形に比べてしまえば暴力性もエロス性も見劣りする…のかもしれない。
 しかしだからといって取るに足らないものと切り捨ててしまうと、球体関節がこれほど人形界に蔓延る理由が説明できなくなってしまう。そもそも、人間の関節と人形の球体関節とでは、見た目も、構造も、根本的に異なっている。人間の皮膚には、人形のような関節における切れ込みと断絶は存在せず、球体が露出してもいない。人形において、四肢や胴体は繋がっているとはいえ見た目としてはきれいに切断されている。球体関節は皮膚に覆われているのではなく、球体関節自体が関節以外の部分と同じ皮膚を持つ肉の部位なのである。

 人形作家が制作する作品としての人形だけではなく、SDをはじめとする愛玩用の人形たちにおいても球体関節で動く仕組みになっている。あらゆる人形が球体関節を持つのは、素材として動かすためには球体関節に頼らざるを得ない、あるいはポーズを取らせるというという便宜的な理由だけではなく、何か「球体関節」そのものに対する執着のようなものがあるようにしか思えない。技術の未発達の時代にはやむを得ずこの仕組みを利用したのかもしれないが(いや、でもベルメールからのインスピレーションを受けた四谷シモンさんが昨今の人形ブームの源流であるところからして、日本の人形作家さんたちがそもそも球体関節に対して全く無関心だった作家がいるとは思えないけれども)、仮に現在、見た目はビスクにそっくりであるが自由に曲げたり折ったりできる形状の素材(!)が発明されたとして、人形作家たちは球体関節を完全に捨て去ってしまうかと考えれば、もちろんそうする人もいるではあろうが全員がそうは到底思えない。球体関節を作るために人形を生み出す人というのがいてもおかしくはない。いまや球体関節そのものがフェティッシュと化している。
 人形においても球体関節ではないリカちゃんやBarbie、Blytheといった人形たちには深刻さとは無縁のどこかおもちゃめいたところがあり、バービー人形などは西洋人的なスタイルでセクシーとはいえても、暴力的なエロスとはかけ離れている(ように思う)。あるいは、実際に人間の女性を本物そっくりに再現したラブドールも、球体関節は存在しないものがほとんどである。生身の女性との直接的な性交渉を妄想するための道具として、本来有り得ないはずの「切れ込み」は不気味さを喚起こそすれ、「リアルな」妄想のためには妨げになるだけなのだろうか。

 男性に関しては分からないが、大人の女性において特に、女性のかたちをした球体関節人形に対する愛着を抱く人が多い傾向にあるように思う。ゴスロリやロリータファッションを好む女性が「人形のようになりたい」と発言しているのはよくみかけるが、彼女たちが「なりたい」人形は子どもの頃に遊んだリカちゃんやバービーではなくて、球体関節人形なのだ。ここ数年流行している「球体関節ストッキング」というのは、あれは一体なんなのか…、よく考えなくても奇妙な現象ではある。私たちはすでに自在に動かすことのできる関節と断絶の無い滑らかな皮膚に覆われた肉を持っているのに、なぜみずからあの不自然な球体関節を欲するのか。分断されたい、暴力的に犯されたい、というマゾヒスティックな、ある意味でナルシスティックな欲望によるものなのだろうか。それは現代社会の病理に冒された少女たちの変態的で倒錯的な欲求として片付けてしまうべきなのだろうか。…このあたりは身体論はもちろんのこと少女というテーマと関連させて考えられることだと思う。 


◆近年しばしば見かける、死体を模した人形とは何なのか。人形というのはすでに死んでいる(生命をもたない)存在であるのに、それに加えてなぜ人形によって死を表象するのか?(二重の死?)。
これについてもよく感じることのあるものだった。死んだように見える人形。瞳孔の開き切った天野可淡の人形をはじめとして、永遠の眠りにつくかのように見える恋月姫人形まで、死の薫りを漂わせる人形の系譜は連綿と受け継がれ、現在では人形をさらに痛め付けるようにして苦痛を味わわせるといった、(それこそ)暴力的とも言える工夫で死を表現している人形作品というのも存在する。あとは、これは少し毛色は違うがメズコトイズから出されている、死亡証明書付きで棺桶に入ったリビング・デッド・ドールシリーズ。ああなぜ私たちはこんなにも人形を殺したがるのだろうか…。