
生協で前売を購入しておいてすっかり忘れていた。マグリット展をようやく訪問することができた。同時期にルーヴル美術館展を開催していて、そちらの方が未だ混雑度はずっと高いもよう。
ルネ・マグリット。ベルギーに生まれ、王立アカデミー時代は印象派、未来派に影響を受けつつ、アール・デコ風なポスター、デザインも手掛ける。パリに移り住み抽象絵画からシュルレアリスムへ接近、デペイズマンの手法などを取り入れながら独自の表現を築き上げてゆく。しかしやがてブルトンと仲違いをし、シュルレアリスム運動からは距離を置くようになり、ふたたびブリュッセルへ戻る。
ひとりの画家が、これほど多様なことに関心を持ち、多彩な表現を行うものかと驚いた。第二次大戦への反撥から「ルノワールの時代」と言われていた時代にはそれ以前の不条理さは見る影もなく、まさに印象派と言いきってしまっておかしくないほどの色と筆遣いの柔らかさ、パステル調の夢心地が際立つし、フォービズムをもじって「ヴァーシュ」と名付けたという後期の時代には打って変わって荒々しく、鮮烈な色遣いが映える。
色々なことを考えさせられる展示であったけれども、なかでも個人的にとても興味深かったものが、マグリットがテーマとしていたという言葉とイメージの関係性についてであった。今回の展示でいうと、中盤あたり。「事物・イメージ・名前」の関連。「名称―明確」「イメージ―曖昧」という図式とその逆も然りなのでは、といった問いかけ。描かれた絵とタイトルとの相互関係。これらへの関心は明示的であるし、このように直接的に表現したものではなくとも、彼の作品の多くが突飛なモチーフの組み合わせや、日常の事物の有り得ざる変容(女体→木、とか)、似ているものの置き換え、などのあらゆる試みから成り立っている。あまりにもかけ離れているようにしか思えないタイトルと絵の内容との関係は小さい子どもが見ても不思議に感じるだろう。後期は彼の関心が「言葉」と「イメージ」という問題から「目に見える日常に潜む謎と神秘」といった問題へ移ったとされてはいるが、それを解決するために取られた「問題と解答」という方法論はやはり言葉とイメージの問題である。言葉とイメージに対する根源的な関心はマグリットの生涯を貫いていたことが読み取れると思う。フーコーが関心を寄せたというのも頷ける。
おそらく彼の考えていたことを文字通りに言葉とイメージで表現した作品(?)があり、これは雑誌「シュルレアリスム革命」第12号(1929年12月15日)に掲載されたものであるらしい。“LES MOT ET LES IMAGES”というタイトルで、彼の考える「原則」のようなものがひとつひとつ、絵柄と説明付きで示されている。
(あとはこのシリーズのトートバッグと、ひとつにそれぞれひとつのイラストと説明がかかれたカップ&ソーサーがあり、衝動買いしそうになるのをようやく抑える。)
マグリットのユーモアのセンスも光る。《Ceci n'est pas la pipe》のシリーズのひとつは終盤にきちんとあった。それから初めて見たのだが、《レディ・メイドの花束》(このタイトルがまた…!)、ボッティチェリのプリマヴェーラと、スーツを着てこちらに背を向けた男を描いた作品。その作品に付されていたのがこのキャプション。
私は《春》のイメージを選びましたが、観念を選んだわけではありません。ボッティチェルリが彼女に与えたと思われるような、寓意的な意味について読んだことはありません。それに、読みたいとは思いません。私の関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです。
―1966年「ライフライフ誌」によるインタヴュー
他にもいくつかこのような記述が見られた。哲学する、という行為を嘲笑い小ばかにしているようには見える。言いたいことはとてもよくわかる(と思う)。だが本当に無関心であるならわざわざそれを記述することはない。仮にそうであったならあのような、ギクッとさせられる、「思わず考えさせられる」ような絵が描けるはずもなく、むしろそれについて、葛藤があったというか、自分の中で模索していたからこそ、主題化しているのであろう。先ほど述べたような、彼がイメージに関して取っている態度が、視覚文化論やらイメージ論やらに取り組んでいる後の人からまさに大真面目に「思想・哲学的なこと」として考えられているというのは皮肉なことかもしれないし、そのあたりをマグリット自身がどう考えたのかは気になるところではある。ともかく彼の遊び心の前では、マジメな議論も滑稽なものと堕してしまうのは確かかもしれない。
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