2015/01/06

『ジョルジュ・デ・キリコー変遷と回帰』展



ジョルジュ・デ・キリコの回顧展、最終日に汐留にあるPanasonicのミュージアムへと駆け込んできました。

デ・キリコの作品は不安や孤独の感情を示すという前提知識しか持っていなかったので、押しつぶされてしまわないようにと覚悟していったのですが、やはり実際に訪れて作品群と向き合うと想像と全く違う印象を受けたり、新しい側面を見つけたりすることができます。

彼の作品は一般に言われているように、確かにそこに描かれる人や静物たちは不安げな表情を見せ、画面は寂寞としています。しかしながら、どこか不思議な温かみを覚えさせるという印象を抱きました。絶望の淵に追いやられているといった悲愴感がどうしても感じられないのです。むしろ登場するひとびと(?)はどこか幸せなようにさえ見える。人の感情を持つマネキンは人形好きの私からしてもやや不気味な気もするし、長く伸びる建物の影は確かに心の陰を映し出しているようにも見えますが、それよりも、画面の全体が存外にも「明るい」ことが目につきました。

後の評価にあるように、デ・キリコの最大の特徴のひとつともいえるものが古典古代へと立ち返ったということですが、これは彼の絵画表現やモチーフに表れているだけではなく、思考と絵画人生そのものに大きく影響を与えたといえるような重要な要素であったと、私も強く思います。巨匠たちの絵を引用し古典絵画の技法を用い始めたデ・キリコを権威への回帰である、とブルドンを始めとするシュルレアリストたちは非難することとなりますが、まさにそのような過去への回帰こそが、彼の絵の奇妙な明るさと優しさとを生み出しているのではないか、と感じるのです。

ところで、彼は若いころからニーチェへ傾倒していたということですが、それは彼の作品を見ればとても納得がいくことかもしれません。しかし、あくまでも私の勝手な妄想にすぎませんが、デ・キリコは生というものについて深く考え、ニーチェと同じような苦しみを覚えつつも、その思想から一線を画そうとしたのではないでしょうか…ということになぜか妙な確信を覚えています。ちょうどシュルレアリスムと決別し、自身の形而上絵画の構築へと向かう態度をとったのと同じように、ニーチェに対しても、そのまま溺れ行ってしまうことを防ぐために、敢えて自ら距離を置こうと努めたのではないかしらと…そして古典古代への回帰というのはその苦悩の結果の現れのひとつなのではないかと、そのような想像するのは後世の人間の勝手な妄想に過ぎるでしょうか。

不安を突き詰めて絶望に辿り着けば果てに待つのは発狂のみであり、あるいは現実を真っ向から否定するなら、永遠の夢の中に揺蕩い続けるしかなくなってしまう。その窮地において彼の進んでゆく道を選ばせたのが、「過去」という世界へ馳せる思いであり、それこそが彼にとっての人生を歩んでいくためのひとつの「希望」を持たせる役割を果たしたのではないか、と思うのです。

彼の作品に登場する古代ローマの剣闘士の無表情(というか無顔)なマネキン人形は鋼鉄の冷たい腕を差し伸べて私達を包み込もうとし、戯画化された太陽と月は遠い絵本の世界でありながらもどこか懐かしさを呼び起こす。不可解なモチーフの組み合わせが見るものを煙に巻くかと思いきや、見たことの無いはずの世界へと誘い突き放すぎりぎりのところで怪しくも心地好い郷愁へと引き入れる。

「謎以外に、いったい何を愛せようか」―これは彼の最も愛した言葉であるということですが、ここにまさに、彼の諦観と人間に対する愛との葛藤と、その最大の問題に対して彼の出した答えとが表されているような…そんな気がしてしまいます。

美術史においても特異な存在となり、現在もなおその評価と位置づけが定まっていないとも言われるデ・キリコ。「奇妙な甘美」と表現されているのをどこかで見かけたのですが、確かにどことなくお上品で、個人的にはわりと好みなテイストです。
Wikipedia程度の知識しか持たぬままものすごく直感的かつ表面的な解釈をしてしまったので、すごくとんちんかんなんだろうと思います。デ・キリコとの再会の場はきっと、MoMAであることを願っています。その時にはもっと自分自身が成長できていますように。

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