2015/01/20

トリュフォー「華氏451度」(1966)

身体に休めと脳が号令をかけるかのように、強制的に眠りに就かされてしまうという日がときおり、不意に訪れる。気付かぬうちに疲労が溜まっていたのか、一昨日の朝から急に発熱し、2日間ほどひたすら眠ることによって1日を終えてしまった。普段惜しむように使っていた時間が睡魔と倦怠によってみるみるとうちに食われてゆくのだが、病気の時には何の罪悪感も覚えない…削っていた分の睡眠時間を取り返させられたことになってしまった…と後悔するが、こうして呑気に倒れていられるだけでも恵まれている。

さて、そんな病み上がりの若干痛みの残る頭を覚醒させるため、イメージ・フォーラムにてSF対決企画の、トリュフォー「華氏451度」を観賞。
原作である同名のブラッドベリの小説も読まなくてはと思いつつすっかり忘れてしまったので、トリュフォー作品も観れるし一石二鳥かと思い、最終日に駆け込んだ。

優劣を付けさせるための企画と言うわけではないというのは承知だが、どうしても頭の中では今回上映されているもう一方の作品であるゴダールのアルファヴィルと比較がなされてしまう。
その際に、アルファヴィルを観た際には抱かなかった制作時の技術の制約や発想の限界というものを観者に伝えてしまう何かが、こちらの作品の方にはあるように感じられた。簡単にユートピアやディストピアと言うが、実に「それらしい」未来世界を築き上げるのはかくも難しいことなのだろう。逆に言えば、時を経てもなお色褪せない“近未来”を描いた小説や映画が、いかに豊かで突飛な発想と、緻密な構成の組み合わせによって練り上げられているかということであり、そうした作品群とその作者には改めて敬意を払わざるを得ない。
(原作の小説を読んでいないということで、ストーリーと技術の話を一緒くたにし映画と小説のどちらについてともはっきりしないいい加減な印象である。なんとなくそう感じた、ということに留めておきたい。)

ともあれ、本作品は書物を読むこと、所有することを禁じられた時代が舞台である。フィクションだとは分かっていても次々と焼かれてゆくさまは胸の痛む光景である……。
インターネットが普及し電子化が進行した現代においてもコンテンツとしての本は今もなお生き続けている(と思い込んでいるのは私やその周りだけなのかもしれないが…)のであり、政策としてこのように文字を排除する時代と、それが訪れるかもしれないということもまるで本気には出来ないけれども、ものを考える力を失う私達…という文脈で考えるならそれはある意味では、速度ばかりが上がってゆく現在においてまさしく進行中なのかもしれない…。

本作中の書物を糾弾する「消防士」たちが主張する、本の楽しみを知らない「頭が空っぽの」女たちとそれに対する本を読むモノたちの「ちょっと変わってるけど、味があって魅力的な人たち」という印象も、主人公が本の面白さに見事にはまり、擁護し、それを知らない者たちを非難し始める図も、紋切り型で、ちょっと苦笑いしたくなるものでもあったが(そのあたりを原作がどう描いているのかはぜひ読んでみなくては)、本好きが主張したいのはけっきょく何だって、それと同じようなことだろう。

私が老婆になるころに本の減りつつある時代が訪れそうになったときには、本を読め、若者よ…身体に染み入るまで読み込むのだ……と呪詛のように唱え続けよう。なんならそのために殉死したっていいとも思う…秘密図書館を暴かれ大事な本を燃やされるならと自ら火を放って、書物もろとも身を焼いた作中のおばさまのように。

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