2015/01/27

ワイズマン「ナショナルギャラリー 英国の至宝」(2014)

Bunkamuraのル・シネマは平日は学生が1100円で観賞できてしまう。これは何か良さげな作品があるならば行かないわけにはいかない。
期末試験が終わってなんとなく映画を観たい気分だったし、美術史のお勉強もかねてちょうどよいかもと思い、月曜日の11時の回の「ナショナルギャラリー 英国の至宝」、10分前に劇場を訪れたら残席がわずか2席のみでぎりぎり間に合う。

作品について。美術館の裏側を覗くことができるのは心躍る。学芸員、科学者や修復チーム、清掃員などの美術館を支える人びとの活動と、ギャラリートークでの所蔵作品の解説が交互に展開されながら、ナショナルギャラリーが181分という時間をかけてじっくりと語られてゆく。
ただ、この映画によって美術館が切り開かれてゆくとか、まるごと捉えられているという感じはしない。ナショナルギャラリーがそれを拒むかのように毅然として威厳を保ち、屹立しているように思わせるのは演出のためだろうか。また映画とは関係ないけれども、美術館の深化は感じられるが進化しているような印象は薄く、美術館という存在が今後どうあってゆくのか、ということついても少し頭を巡らせることとなった。

最後はティツィアーノの前で行われた英国バレエ団とのコラボレーションのイベントの映像で幕を閉じる。絵画と、踊りという動きある芸術との組み合わせ。両者の相乗効果によって人の肉体というものの概念とその美しさとが引き立つ。

しかし肉体の美といえば、読んでいる本や勉強している内容などから近ごろは特別に、西洋かぶれが過ぎていると感じる。どれだけ西洋に心遊ばせても、基本は日本に魂を置いておかないとどこかで調子がくるってしまう…ような気がする。

折しも先日のNHKのEテレ「知の巨人」という番組の三島由紀夫特集で、肉体についてのコンプレックスの塊であった男の姿を視る機会があった。これは何かまた日本人というものについて考えさせられるきっかけであるかもしれない…。

2015/01/21

巌谷國士 講演会「メルヘン-赤ずきん・狼・お菓子の家」



1月の第一週の休日、神奈川大学で巌谷國士さんの講演会が開かれました。仏文学者の巖谷國士さん、私はこの時点では『シュルレアリスムとは何か』のみしかまともに読んだことがなかったのですが、ほかの作品をわざわざ読まずとも、もう私が好きな方に違いないということはわかるのです…(いえ、読みます、ちゃんと…。)…というわけで講演会も迷わず行くことを決めました。乗り馴れた東横線で、白楽にある神奈川大学の横浜キャンパスへ。

 

最近、いくつかの大学を見て回ったりしているのですが、このキャンパスはまたこれまで訪れたことのあるキャンパスとは一風違った雰囲気が漂っていました。白楽駅周辺は飲食店、特にラーメン屋さんがたくさんあって、学生街らしい雰囲気もあります。

 

今回の講演会は、「AN ENCHANTED FOREST おとぎ話の森」展 (http://www.kanagawa-u.ac.jp/library/organize/exhibition/details_11805.html) に合わせて開催されたものらしく、事前に図書館でその展示を見てきました。貴重な原書や版画、甲冑のレプリカなど見るだけでメルヘンの世界にトリップできてしまうような、そんな展示品の数々。

それから現代作家の方の作品も含まれていて、小さいスペースながら見ごたえ十分な展示だったと思います。

 

充分に頭をメルヘン要素で満たしたところで、講演会の会場へ。こぢんまりとした教室で、巖谷さんの講演が始まりました。メルヘンが語られる場所は「森」を舞台とするものが多い、という点から始まり、おとぎばなしにおける森の役割についてのお話。日本語には「杜」という漢字がありますが、西洋においても森には「異世界」や「聖なるもの」という意味もある。

 

次に今回の講演会のテーマである童話「赤ずきん」についての解説と、考察。現在、絵本などで読み聞かせされている子供向けの読み物はグリム童話をもとにして作られたものですが、巖谷さんは初めて赤ずきんがおとぎばなしという形式をとってかたちを成した、ペローの作品のほうに注目します。こちらの方がもとの民話に忠実で、教訓や教育的な要素は薄く、不条理っぷりが直接的に表現されている。日本でも一時期「本当は怖い〇〇」「大人のための○○」シリーズみたいなものがはやったことがありますが、やはり民話伝承はエロくてグロくてエグいのが良いのです…。(もちろん、濁った心を澄ましてくれるアンデルセン童話は、私の中で特別な地位を占めるものではあり、これはこれで侵さざるべき領域であるのにもちがいないのですが。)

 

ガレットを届けに来た赤ずきんがおばあさんの家に入り、すでにおばあさんを食べてしまった狼が寝台に横たわり、おばあさんのふりをして赤ずきんの問いかけに答える有名なシーン。赤ずきんを自分の寝床へと誘う(そう、ペロー版では本当に隣に寝ろと言うのだそうです)際にかける言葉は、「腕が長いのはお前を抱くため」「口が大きいのはお前を食べるため」…、ここでの「抱く」という言葉はあからさまであるし、「食べる」についても、要はそういうことでしょう。

 

ここで強調するまでもないですが、やはり「食べる」という行為は実に、エロティックなものなのです。講演のキーワードの最後の一つである「お菓子の家」も、ようはこれは「食べる」ことが思うまま許されるはずの楽園のこと。本来であれば何かを食べることためには、それに見合う代価を払わなくてはならない。しかしお菓子の家は、じっと動かず何もしなくても、大好きな甘いものがいくらでも手に入るのです。こんなに「幸せな」空間もない。この楽園という空間については巖谷さんはフロイトの口唇愛期の例を取って説明していました。口唇期から抜け出せない人は酒やたばこや甘いものが好きだそうで…、気を付けなくてはなりません…。

 

講演にはスライドも用意されていて、これは童話の挿絵を中心にたくさんの図版が紹介されました。アール・ヌーヴォーの画家カイ・ニールセンの挿絵や、現代アーティストの「狼化する女性」をテーマにした作品の数々。

そのなかでも、ペローの童話の挿絵であるギュスターヴ・ドレの絵はひときわ異彩を放っています。妖しくて謎めいた絵は、ペローのお話に並置されることで、相乗効果を生み出すに違いなく、どれだけ魔を放つ迫力のある本に仕上がっていたことか想像するだけで心躍ります。そして、挿絵に描かれた赤ずきんの大人びていること…、どこかVamp妖婦のようにさえ見える。これはまさしく少女娼婦性であるともいえるかと思いますが、いつか昔話に登場する少女について、考えてみたいなと感じました。

最後はアンリ・ルソーの≪エデンの園のエヴァ≫で締め括り―。彼女ひとりの庭であるかのごとくに森を行き来する裸体のエヴァは、背負った罪など微塵も感じさせません。アダムはどこへいったのか。彼女の進む先には何があるのでしょう。植物と戯れ、月光に濡れたエヴァの姿がこんなにも魅力的だなんて…彼女の住む森は誰にも踏み入ることのできない聖域であるのかもしれません。

ルソーもまた、正規の美術の教育を受けていない、という点でギュスターヴ・ドレと共通するのですが、そのことが関係があるのかは知らないですが、女性を実に魅力的に描きます。今、この作品はポーラ美術館に展示されているみたいです。箱根に行きたい…。

 

最後に神奈川大学の生協書籍部が出張販売していたので、勢いづいて2冊も買ってしまいました。

『森と芸術』はタイトルそのまま、森をテーマにした絵画や文学などの芸術作品について美しい図版とともに語られる軽めだけれど読み応えのあるハードカバーの単行本。それから宇野さんの表紙の『幻想植物園 花と木の話』、こちらはいろいろな種類の植物ごとに、巖谷さんのエッセイが添えられた本。

『森と芸術』のほうに、巖谷さんのサインをいただきました。



 

それにしても今回の森の講演を聞いて、また森が好きになりました。昔から、森という場所に並々ならぬ憧れを感じます。海と森どちらかを選べと聞かれたら、間違いなく森を選びます。別に自然に囲まれて育ってきたわけではありませんが、森というものに対しては郷愁にも似た何かを感じてしまう。森の中を彷徨い歩いて、森という生き物の胎内に静かに取り込まれてしまいたくなる。

 

森は私自身がいつか還るべき場所であるような気がするし、死ぬなら波にのまれ火に焼かれるよりは、鬱蒼と茂った森の中で静かに栄養を吸い取られて、そのまま虫や微生物に分解されて、土に還りたいものです。そうして食物連鎖のサイクルに回帰すること…、私はことあるごとにいろいろな理想の死に方を妄想してしまう癖があるのですが、これはおそらく、私が初めてそう思った理想であったような覚えがあります。そしておそらく人に最も迷惑をかけることなく、なおかつ簡単に実現できる方法かもしれませんね。

2015/01/20

トリュフォー「華氏451度」(1966)

身体に休めと脳が号令をかけるかのように、強制的に眠りに就かされてしまうという日がときおり、不意に訪れる。気付かぬうちに疲労が溜まっていたのか、一昨日の朝から急に発熱し、2日間ほどひたすら眠ることによって1日を終えてしまった。普段惜しむように使っていた時間が睡魔と倦怠によってみるみるとうちに食われてゆくのだが、病気の時には何の罪悪感も覚えない…削っていた分の睡眠時間を取り返させられたことになってしまった…と後悔するが、こうして呑気に倒れていられるだけでも恵まれている。

さて、そんな病み上がりの若干痛みの残る頭を覚醒させるため、イメージ・フォーラムにてSF対決企画の、トリュフォー「華氏451度」を観賞。
原作である同名のブラッドベリの小説も読まなくてはと思いつつすっかり忘れてしまったので、トリュフォー作品も観れるし一石二鳥かと思い、最終日に駆け込んだ。

優劣を付けさせるための企画と言うわけではないというのは承知だが、どうしても頭の中では今回上映されているもう一方の作品であるゴダールのアルファヴィルと比較がなされてしまう。
その際に、アルファヴィルを観た際には抱かなかった制作時の技術の制約や発想の限界というものを観者に伝えてしまう何かが、こちらの作品の方にはあるように感じられた。簡単にユートピアやディストピアと言うが、実に「それらしい」未来世界を築き上げるのはかくも難しいことなのだろう。逆に言えば、時を経てもなお色褪せない“近未来”を描いた小説や映画が、いかに豊かで突飛な発想と、緻密な構成の組み合わせによって練り上げられているかということであり、そうした作品群とその作者には改めて敬意を払わざるを得ない。
(原作の小説を読んでいないということで、ストーリーと技術の話を一緒くたにし映画と小説のどちらについてともはっきりしないいい加減な印象である。なんとなくそう感じた、ということに留めておきたい。)

ともあれ、本作品は書物を読むこと、所有することを禁じられた時代が舞台である。フィクションだとは分かっていても次々と焼かれてゆくさまは胸の痛む光景である……。
インターネットが普及し電子化が進行した現代においてもコンテンツとしての本は今もなお生き続けている(と思い込んでいるのは私やその周りだけなのかもしれないが…)のであり、政策としてこのように文字を排除する時代と、それが訪れるかもしれないということもまるで本気には出来ないけれども、ものを考える力を失う私達…という文脈で考えるならそれはある意味では、速度ばかりが上がってゆく現在においてまさしく進行中なのかもしれない…。

本作中の書物を糾弾する「消防士」たちが主張する、本の楽しみを知らない「頭が空っぽの」女たちとそれに対する本を読むモノたちの「ちょっと変わってるけど、味があって魅力的な人たち」という印象も、主人公が本の面白さに見事にはまり、擁護し、それを知らない者たちを非難し始める図も、紋切り型で、ちょっと苦笑いしたくなるものでもあったが(そのあたりを原作がどう描いているのかはぜひ読んでみなくては)、本好きが主張したいのはけっきょく何だって、それと同じようなことだろう。

私が老婆になるころに本の減りつつある時代が訪れそうになったときには、本を読め、若者よ…身体に染み入るまで読み込むのだ……と呪詛のように唱え続けよう。なんならそのために殉死したっていいとも思う…秘密図書館を暴かれ大事な本を燃やされるならと自ら火を放って、書物もろとも身を焼いた作中のおばさまのように。

2015/01/06

『ジョルジュ・デ・キリコー変遷と回帰』展



ジョルジュ・デ・キリコの回顧展、最終日に汐留にあるPanasonicのミュージアムへと駆け込んできました。

デ・キリコの作品は不安や孤独の感情を示すという前提知識しか持っていなかったので、押しつぶされてしまわないようにと覚悟していったのですが、やはり実際に訪れて作品群と向き合うと想像と全く違う印象を受けたり、新しい側面を見つけたりすることができます。

彼の作品は一般に言われているように、確かにそこに描かれる人や静物たちは不安げな表情を見せ、画面は寂寞としています。しかしながら、どこか不思議な温かみを覚えさせるという印象を抱きました。絶望の淵に追いやられているといった悲愴感がどうしても感じられないのです。むしろ登場するひとびと(?)はどこか幸せなようにさえ見える。人の感情を持つマネキンは人形好きの私からしてもやや不気味な気もするし、長く伸びる建物の影は確かに心の陰を映し出しているようにも見えますが、それよりも、画面の全体が存外にも「明るい」ことが目につきました。

後の評価にあるように、デ・キリコの最大の特徴のひとつともいえるものが古典古代へと立ち返ったということですが、これは彼の絵画表現やモチーフに表れているだけではなく、思考と絵画人生そのものに大きく影響を与えたといえるような重要な要素であったと、私も強く思います。巨匠たちの絵を引用し古典絵画の技法を用い始めたデ・キリコを権威への回帰である、とブルドンを始めとするシュルレアリストたちは非難することとなりますが、まさにそのような過去への回帰こそが、彼の絵の奇妙な明るさと優しさとを生み出しているのではないか、と感じるのです。

ところで、彼は若いころからニーチェへ傾倒していたということですが、それは彼の作品を見ればとても納得がいくことかもしれません。しかし、あくまでも私の勝手な妄想にすぎませんが、デ・キリコは生というものについて深く考え、ニーチェと同じような苦しみを覚えつつも、その思想から一線を画そうとしたのではないでしょうか…ということになぜか妙な確信を覚えています。ちょうどシュルレアリスムと決別し、自身の形而上絵画の構築へと向かう態度をとったのと同じように、ニーチェに対しても、そのまま溺れ行ってしまうことを防ぐために、敢えて自ら距離を置こうと努めたのではないかしらと…そして古典古代への回帰というのはその苦悩の結果の現れのひとつなのではないかと、そのような想像するのは後世の人間の勝手な妄想に過ぎるでしょうか。

不安を突き詰めて絶望に辿り着けば果てに待つのは発狂のみであり、あるいは現実を真っ向から否定するなら、永遠の夢の中に揺蕩い続けるしかなくなってしまう。その窮地において彼の進んでゆく道を選ばせたのが、「過去」という世界へ馳せる思いであり、それこそが彼にとっての人生を歩んでいくためのひとつの「希望」を持たせる役割を果たしたのではないか、と思うのです。

彼の作品に登場する古代ローマの剣闘士の無表情(というか無顔)なマネキン人形は鋼鉄の冷たい腕を差し伸べて私達を包み込もうとし、戯画化された太陽と月は遠い絵本の世界でありながらもどこか懐かしさを呼び起こす。不可解なモチーフの組み合わせが見るものを煙に巻くかと思いきや、見たことの無いはずの世界へと誘い突き放すぎりぎりのところで怪しくも心地好い郷愁へと引き入れる。

「謎以外に、いったい何を愛せようか」―これは彼の最も愛した言葉であるということですが、ここにまさに、彼の諦観と人間に対する愛との葛藤と、その最大の問題に対して彼の出した答えとが表されているような…そんな気がしてしまいます。

美術史においても特異な存在となり、現在もなおその評価と位置づけが定まっていないとも言われるデ・キリコ。「奇妙な甘美」と表現されているのをどこかで見かけたのですが、確かにどことなくお上品で、個人的にはわりと好みなテイストです。
Wikipedia程度の知識しか持たぬままものすごく直感的かつ表面的な解釈をしてしまったので、すごくとんちんかんなんだろうと思います。デ・キリコとの再会の場はきっと、MoMAであることを願っています。その時にはもっと自分自身が成長できていますように。

『エロスの涙』



新年の読書はバタイユの『エロスの涙』から…。
最も親しみやすい本と自身が述べていたというが、シンプルなだけにかえって難解であるように感ぜられる。先にエロティシズムを読んでいなければ何を言いたいのかがちらとも分からなかっただろう。
しかし詩のような一文一文が熱を帯び蠢き、選び抜かれた刺激的な図版の数々は読み手を目眩く幻惑に誘い込む……ある意味で、彼の思想に最も「親しむ」ことのできる作品なのだろうか。

ブックオフで見つけて即買いしたのだけれど、表紙も美しく上品な深緑…これは新品で買えばよかった、とやや後悔。