2015/06/27

「Designing Body 美しい義足をつくる」 東京大学生産技術研究所S棟







 駒場にある東大の生産技術研究所S棟1Fギャラリーで行われていた、「Designing Body 美しい義足をつくる」展。
 東大の山中俊治先生が中心となり、その研究所の学生たちとともに最新技術を駆使してこれまで制作してきた義足を展示している。陸上競技用から日常の使用に合わせたものまで。コンセプトはタイトルにあるように「美しい」こと。
 義足の制作にあたっては3Dプリンティングと一般に呼ばれているAdditive Manufacturing技術(AM技術)というものを用いているようで、しかしこのあたりの技術的なことは1ミリも分からないので、感想のみ綴ります。




 パラリンピックなど、陸上競技用の義足。スクリーンには、走った際の義足(青色)と人間の足(赤色)の軌跡を記した映像が投影されている。人間の足が不安定な軌跡を描くのに対して、義足はほぼ完璧な弧を描きながら進んでゆく。(静止画だと分かりづらい)


 女性用の義足。これは日常の使用に合わせたものだと思う。なるほど従来の義足と比べればはるかにスタイリッシュで、洗練されたデザインだと感じた。


 気になったのが、本展のタイトルにある「美しい」という形容詞について。義足において、「美しさ」とは何なのか。パラリンピックで義足の陸上選手の走る姿を見て、「人と人工物の類まれなる関わりに、究極の機能美を見出したのはそのとき。」とHPにある。

 機能においては、完璧なことが求められるのか?そこでは「不完全さ」という「人間らしさ」は失われるという考えもできるのではないか?デザインについては、余分なものを削ぎ落としたものが望ましいのか?あるいは可愛らしく装飾を施すのはありなのか?

義肢はこれまで、失われた四肢の代替物として、健常者の身体に近づけることこそが理想とされてきました。
しかし義足アスリートたちの駆け抜ける姿は、失われたその場所こそが、
新たな可能性であると気付かせてくれます。 
この展示では、これまで制作してきた義足を一堂に会すと共に、
新しく動き出した、先端技術を駆使したプロジェクトの紹介を行います。
美しい義足プロジェクトの第二章開幕として、ご覧いただければ幸いです。
http://www.design-lab.iis.u-tokyo.ac.jp/exhibition/DesigningBody/index.html [2015/06/27アクセス] 

 欠損部分を補うことによって健常者の身体に近づけることではなく、その欠損部分に、新たな可能性を見い出すこと。その追究の過程のひとつが、あの映像にあったような、不気味なまでに美しく描かれた弧であるとするなら。
 攻殻機動隊のようなアニメがあることをおもうと、義体というのも他人事という気がしない。

 今回の展示に合わせてソマルタの廣川玉枝さんが出られたトークイベントもあったらしく、これは予定が合わず参加できなかったのだが、ぜひとも聞いてみたかったと悔やまれる。
 あとは、義足のアーティストといえば片山真理さんだ。彼女がこの展示と関与していたようには見えなかったのだが、ぜひ何かしらの形で携わっても良いのではないかという気がしたのは、私自身の個人的な要望である。




従来、使われていた義足。

「Salon d'histoire naturelle 博物蒐集家の応接間 蜜と毒 気配」

「Salon d'histoire naturelle 博物蒐集家の応接間 蜜と毒 気配」、2015/6/9訪問。

 全国からいくつかのアンティークショップが集い、合同で企画された展示会。展示されていたのは、剥製・標本・天文・解剖画・キリスト教・博物画・植物画・衣類・義眼・人形・銀器…といった、あれこれ。いずれも蒐集欲をそそるものばかりで、もちろんすべて値札が付けられている。

 これまでアンティークのものに対してはどうも抵抗があり(持ち主の霊がこもっているようで…こんなことを言う柄ではないのだけれど…)、各地でしばしば開催されている蚤の市などに出かけたことがなかった。けれど19世紀、18世紀のものが目の前にあると思うと自然と心は吸い寄せられていた。アンティークといってもとりわけこの展示のコンセプトである「蜜と毒」を纏い秘めたオブジェたちが一つの空間に集められ鎮座しているというのはよくよく考えると非常に贅沢なことであり、こんな機会も珍しいものだと思う。


渋谷神南、グリモワールが入ったビル。






スペイン語で書かれた星座早見表。
天体モノはいつまでも心惹かれてやみません。




最も心の奪われた、義眼たち。灰色の虹彩。血管もきちんと入っている。
ネットで商品情報を読んだところ、ルーアンで見つけた本物の義眼の作成キットだということ。



バンビと、くまさんのぬいぐるみ。


晩餐。

 ブローチなど。中には持ち主の遺骨が入っているというものも。
下の並んでいる銀のボタンは、フランスの博物館の制服のボタンだそうです。

2015/06/15

『シンプルなかたち展:美はどこからくるのか』 森美術館

 森美術館の1年間の工事のすえのリニューアルオープンを記念して開催された「シンプルなかたち」展。

 古今東西から、「シンプルなかたち」であると判断されたらしいものが約130点。展示はこれらが「形而上学的風景」「孤高の庵」「宇宙と月」「力学的なかたち」「幾何学的なかたち」「自然のかたち」「生成のかたち」「動物と人間」「かたちの謎」という9つのセクションに分類され、構成されている。

 「シンプルなかたち」という言葉でくくられるものの内実は、その名に反して複雑だと思う。19世紀から20世紀にかけて再認識されたという単純さの美を、石器や自然、工芸、仏像、現代のインスタレーション作品などあらゆる視点から照射して捉えなおす試み。めざしていることはとてもよく分かるのだが、この単純に「シンプル」というものの系譜を辿ることは容易なことではないだろう。実際、今回の作品群も一応テーマに沿って選択されてはいるものの、そのテーマ設定の根拠が無批判に呑み込めるものであったというわけではないのと、どのようなコンセプトで集めたのかがあまりにも漠然としており、すっきりとまとまっているという印象は薄かったように感じられてしまった。

 とはいえ、それは全部観賞し終えてからあらためて展覧会全体を振り返ってみたときにぼんやりと感じたことであって、作品のひとつひとつは観に行く価値のあるものばかりだと思う。現代アートには疎く、過剰装飾礼讃者の私にとってはどれもこれも語る言葉が乏しい代わりに新鮮で純粋な驚きを持ってみることができ、いずれについても眼も心も吸い寄せられていた。
 「シンプルなかたち」というものがコンセプトとして興味深いし、重要なのはここに古今東西から作品たちがある一定の基準に則って厳選されて集められてきたということである。今後「シンプルなかたち」というものを考えてゆく上での大きな指針になり得ることは間違いない。
 あとは、何よりシンプルでありながら上品な優美さを湛え、洗練されているこの展示が、この美術館の雰囲気に絶妙にマッチしている。パンフレットやポスターは、白地に金色の文字。カッコいい。ああ、六本木だ…今後の展示にも期待!
 

どう見ても右側のポスターの方が目立つけど、行ったのは←の方の展示です。
NARUTOも行きたいのだけど…。



オラファー・エリアソン《丸い虹》2005年

 美しい!


大巻伸嗣《リミナル・エアー スペース―タイム》2015年

 下から空気を入れてふわふわとヴェールを浮かせるというもの。見入ってしまう。

『マグリット』展 国立新美術館



 生協で前売を購入しておいてすっかり忘れていた。マグリット展をようやく訪問することができた。同時期にルーヴル美術館展を開催していて、そちらの方が未だ混雑度はずっと高いもよう。

 ルネ・マグリット。ベルギーに生まれ、王立アカデミー時代は印象派、未来派に影響を受けつつ、アール・デコ風なポスター、デザインも手掛ける。パリに移り住み抽象絵画からシュルレアリスムへ接近、デペイズマンの手法などを取り入れながら独自の表現を築き上げてゆく。しかしやがてブルトンと仲違いをし、シュルレアリスム運動からは距離を置くようになり、ふたたびブリュッセルへ戻る。
 ひとりの画家が、これほど多様なことに関心を持ち、多彩な表現を行うものかと驚いた。第二次大戦への反撥から「ルノワールの時代」と言われていた時代にはそれ以前の不条理さは見る影もなく、まさに印象派と言いきってしまっておかしくないほどの色と筆遣いの柔らかさ、パステル調の夢心地が際立つし、フォービズムをもじって「ヴァーシュ」と名付けたという後期の時代には打って変わって荒々しく、鮮烈な色遣いが映える。

 色々なことを考えさせられる展示であったけれども、なかでも個人的にとても興味深かったものが、マグリットがテーマとしていたという言葉とイメージの関係性についてであった。今回の展示でいうと、中盤あたり。「事物・イメージ・名前」の関連。「名称―明確」「イメージ―曖昧」という図式とその逆も然りなのでは、といった問いかけ。描かれた絵とタイトルとの相互関係。これらへの関心は明示的であるし、このように直接的に表現したものではなくとも、彼の作品の多くが突飛なモチーフの組み合わせや、日常の事物の有り得ざる変容(女体→木、とか)、似ているものの置き換え、などのあらゆる試みから成り立っている。あまりにもかけ離れているようにしか思えないタイトルと絵の内容との関係は小さい子どもが見ても不思議に感じるだろう。後期は彼の関心が「言葉」と「イメージ」という問題から「目に見える日常に潜む謎と神秘」といった問題へ移ったとされてはいるが、それを解決するために取られた「問題と解答」という方法論はやはり言葉とイメージの問題である。言葉とイメージに対する根源的な関心はマグリットの生涯を貫いていたことが読み取れると思う。フーコーが関心を寄せたというのも頷ける。

 おそらく彼の考えていたことを文字通りに言葉とイメージで表現した作品(?)があり、これは雑誌「シュルレアリスム革命」第12号(1929年12月15日)に掲載されたものであるらしい。“LES MOT ET LES IMAGES”というタイトルで、彼の考える「原則」のようなものがひとつひとつ、絵柄と説明付きで示されている。
 

 ポストカードがあったので、購入。とてもかわいい。でもここには全部の三分の一しか含まれていない。
(あとはこのシリーズのトートバッグと、ひとつにそれぞれひとつのイラストと説明がかかれたカップ&ソーサーがあり、衝動買いしそうになるのをようやく抑える。)


 マグリットのユーモアのセンスも光る。《Ceci n'est pas la pipe》のシリーズのひとつは終盤にきちんとあった。それから初めて見たのだが、《レディ・メイドの花束》(このタイトルがまた…!)、ボッティチェリのプリマヴェーラと、スーツを着てこちらに背を向けた男を描いた作品。その作品に付されていたのがこのキャプション。
私は《春》のイメージを選びましたが、観念を選んだわけではありません。ボッティチェルリが彼女に与えたと思われるような、寓意的な意味について読んだことはありません。それに、読みたいとは思いません。私の関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです。
―1966年「ライフライフ誌」によるインタヴュー
 他にもいくつかこのような記述が見られた。哲学する、という行為を嘲笑い小ばかにしているようには見える。言いたいことはとてもよくわかる(と思う)。だが本当に無関心であるならわざわざそれを記述することはない。仮にそうであったならあのような、ギクッとさせられる、「思わず考えさせられる」ような絵が描けるはずもなく、むしろそれについて、葛藤があったというか、自分の中で模索していたからこそ、主題化しているのであろう。先ほど述べたような、彼がイメージに関して取っている態度が、視覚文化論やらイメージ論やらに取り組んでいる後の人からまさに大真面目に「思想・哲学的なこと」として考えられているというのは皮肉なことかもしれないし、そのあたりをマグリット自身がどう考えたのかは気になるところではある。ともかく彼の遊び心の前では、マジメな議論も滑稽なものと堕してしまうのは確かかもしれない。


 合計で絵画作品が130点ほど。かなり見ごたえがある。あとは資料がとても豊富だ。アール・デコ風のポスターや広告がある。当時の展覧会カタログがある。「ドキュマン」がある。シュルレアリスム好きの方は是が非でも行くべきだと思うし、20世紀前半パリ好きな方、また作品自体が奇妙で面白いので美術に関心はない人が見ても確実に楽しめるはずである。
 小さい子どもが親に連れられてかなり多く見に来ていたのが印象的だったが、彼らもじっと作品に見入っていた。なるほど、見ていてとても面白いのだろうし、彼らの方が私たちよりもずっと、「純粋」な眼と心で作品を観賞できているかもしれないのだ。