2014/11/24

『見世物と土方巽』見世物学会記念シンポジウム




11月15日の土曜日に、三田キャンパスの北館ホールにて見世物学会のシンポジウムが開催された。
そもそも「見世物学会」なるものが存在すること、その総会とシンポジウムがうちのような大学で開催されるという事実は単純に面白い現象であると思う。
内容は見世物小屋の写真展示と、学会の総会、記念シンポジウム。慶應の土方巽アーカイブとのコラボレーションによって、「見世物と土方巽」をテーマとした企画である。



戦後、都市化が進行し、街から次々と陰や闇が消え、隅々までが日に晒されてゆくにつれて、方々からの「人倫」という観点からの非難が相次ぎ、見世物小屋は次々と出店停止に追いやられることとなった。
今では見世物小屋を実施可能な機会は、都内においては花園神社と靖国神社の、わずかふたつの祭りにおいてのみ。

現代ではタブーとされた、見世物小屋やサーカスの「倫理的な」是非は一旦、保留にしておこう。
問題は、出店停止へと追いやられてゆく理由や経緯について。
たったひとりの誰かの声により、警察や上の介入が入る。他の多くの人々が、もしかするとその人以外のすべての人々が、その上演を楽しみに心待ちにしている状況であっても、その声を上げたひとりの意見が通ってしまう。
周りは誰一人、そのことに不満の声をあげることはしない。厄介ごとに巻き込まれるのは嫌だから。面倒に首を突っ込むくらいだったら別に、見られなくても仕方ない。

シンポジウムの第二部で聞いたことであるが、これは見世物だけではなく、劇団でしばしば実施される「野外上演」についても同様のことが当てはまるという。
うるさくて迷惑だから。子どもに悪影響を与えるから。見ていて気持ちが悪いから。

苦情の内容は単純に、これらの自分の「不快」感をもとにしたもの。
野外上演を行うことのある劇団は今では、上演場所を確保することが非常に困難であるらしい。

このような状況もなんだかなぁ、と良い気分がしないことであるけれども、これに加えてまったく呆れてしまうようなことが。靖国神社の御霊祭りにおいては、若者のあまりの酒癖と振る舞いの悪さに見世物小屋のみならず露店が全店出店停止になったという。
個々人が酒にまみれ野放図に荒れ回る状況は論外である。しかし周りのひとびとも、遠巻きに眺めるだけ。
他への干渉を拒否すること。自分さえよければ周りの人はどうでも良いと開き直ること。自分のテリトリーは死守するけれども、それ以外であれば構わない。

このことは先ほど同様、見世物やら野外劇場が街から次々と淘汰されてゆく状況を反映しているような気がする。

見世物小屋を存続させるのが良いことなのか悪いことなのかはわからない。芸術や風俗文化に、弾圧はつきものである。そして社会の環境も人々の価値観も、常に同じであり続けることはない。それに合わせて、何か新しい方法での上演を模索してゆく必要も考えてゆく必要も少なからず生じるだろう。

しかし、見世物の危機とも言える状況下で、生まれたときから見世物小屋の子供として生まれ育ち、自分の一部のような存在として育ってこられたおじいさまやおばあさまが感情を堪え切れず涙していた姿が、脳裏に焼き付いている。ああこうして、社会も世の中も目まぐるしく変わってゆくらしい。
そんなふうにしてぼんやりと心に浮かんだ感情は、「他人事」の態度を取っている人々のそれと何ら変わりがないことに気が付いた。


社会とはいつも縁遠いところばかりをほわほわと漂っているので、こういうことを文章におこすことはなかなか慣れないし得意ではないし結局何が言いたかったのかは自分でも良く分からないけれどとりあえず感想を述べてみた。まだこれから見られなくなると決まったわけではもちろんないけれども、今年の夏、このようにちょうど何か一区切りがつきそうなタイミングで、靖国神社にてゴキブリコンビナートさんの見世物を見て、アマゾネスぴょんこさんの火吹きを見ることができたのは幸運だったかもしれない。私は個人的にはもちろん、見世物小屋は細々とでも構わないから、存続してほしいと願っている。花園神社には行けなかったけれど、川越や浦和のほうにも機会があれば足をのばしてみれたら、と思う。

記念シンポジウムの慶應のアーツセンターギャラリーの暗黒舞踏の土方巽とのコラボレーション、という今回の企画の趣旨はあまりにもナイスでした。この大学にいてよかった、と思える瞬間のひとつを久々にじっくりと堪能とした、誕生日の嬉しい贈り物でした。


0 件のコメント:

コメントを投稿