2014/11/24

『反世界から半世紀ー中井英夫』展

どれほど成就してほしいと祈り、おかしくなりそうなくらいに焦がれても、叶わぬ恋というものがあります。
 
なぜ叶わないかといえば、たとえばその相手は今現在、此の世にはない存在であるため、あるいは自分の女性という性によって、彼の恋の対象にはなり得ないためです。
 
自分の努力や工夫でどうしようもないものほど、遣る瀬無いこともない。しかしながら実際に叶えられたものだけが、幸せをもたらしてくれる本物の恋であるといえるでしょうか。
まだ右も左も分からず、それを何とも気にすることさえなくふらふらと彷徨っていた時、ふとしたことをきっかけに、彼が丹念に創り上げそっと遺してくれた秘密の園へと、幸か不幸か導かれてしまった。足を踏み入れた瞬間に魅了され、そしてその主を知るや否や、彼に対する烈しい想いに囚われました。もちろんそれは叶うことはおろか本人へ届きさえすることもない、傍から見れば滑稽極まりないものです。けれど叶わぬという事実に気付き、深い絶望を味わうと同時に、其処へ辿り着いたことの、易々と充足の出来る欲望には縁遠いであろう悦楽を得、彼の築いた庭に遊ぶことの愉しみを見い出すことができたのでした。昔から世渡りの下手な私にとって、良くも悪くも、これがある意味では絶対的な庇護下にある逃避先であったと思います。
 
そんな少女時代の「幸せ」な体験は心の奥底に眠っていて、現実の彼是に追われて久しくじっくりと覗くことができていませんでした。しかし先日、彼に邂逅することができるとの知らせを目にして、今日という機会を捉えて訪れることを決めました。
昨年の同日と同じく、目に毒なんじゃないかと心配になるほどの雲一つない青々とした快晴、向かうは要町の光文社のビルの1階にある、ミステリ文学資料館。
現在開催中の『反世界から半世紀―中井英夫』展、これは彼の代表作であり、日本の三大奇書のひとつとして知られる『虚無への供物』刊行から50年を記念して企画されたものだそうです。
 
こぢんまりとした資料室の中にある小さなスペースに、あの濃密な世界が現前していました。エッセイ集の表紙の写真で馴染み深い飴色のフレームの眼鏡に愛用の万年筆やとらんぷ…、自筆原稿、澁澤や乱歩へ、あるいは名を知らない誰かへ宛てた書簡。久しく離れていたこれらのものたちに触れて、忘れてしまっていた想いが堰を切ったように襲ってきました。
 
そして何より、かつては知りさえしなかった、あるいは知ることを拒否していた彼の晩年と彼の創り上げた反世界の、本当の行方というものについても今回、じっくりと考える契機を持つことができたように思います。
永遠に咲き誇るはずの薔薇は朽ちゆき、黒鳥の館は無作法に荒れ果て、最後の心の在り処であった月蝕領は、彼の愛する人を侵した病によって崩壊する。それはおそらく私がこの歳になったからこそ、直視することができるようになったであろう、「現実」に起こったことがらの数々でした。
 
追い求めた“反地上”は所詮、絵空事でしかなく、彼ほどの生粋の幻視者そして文体者(スタイリスト)を以てしても、現実の時間には遂に抗うことができなかった――
という陳腐で単純な図式に帰着させてしまうのはあまりにも味も素っ気もない解釈でしょう。しかしここはFacebook、反論したい気持ちを抑えつつ、やや「こちら側」を重視した見解を、ひとまず取っておこうと思います。(この文章はFacebookに投稿したものなのでこのような書き方になりましたが、いつかは「あちら側」を重視した見解も編み出してみたいものです)
 
墓と化した流薔園に黒鳥館、そして月蝕領を再びこの地に甦らせることは不可能なことかもしれずとも、反世界なるものの命脈は、今でも決して少なくない、私の敬愛する人々によって細々としかし着実に保ち続けられているような気がいたします。
事実、私が導かれたのもそうした彼らによってであったのでした。私自身が悦びをもらい、助けられたことの恩返しとともに、叶おうと叶わなくとも、自分も少しでもこれに寄与できたら…、と祈ることくらいは赦していただけはしないだろうか…。
 
あたかも本当に天帝が実在するかと錯覚してしまうような澄み切った秋の空に向けてそう静かに願いを捧げた今日は、決して華々しくはないけれど穏やかで、私にとって忘れがたき一日となりました。




『見世物と土方巽』見世物学会記念シンポジウム




11月15日の土曜日に、三田キャンパスの北館ホールにて見世物学会のシンポジウムが開催された。
そもそも「見世物学会」なるものが存在すること、その総会とシンポジウムがうちのような大学で開催されるという事実は単純に面白い現象であると思う。
内容は見世物小屋の写真展示と、学会の総会、記念シンポジウム。慶應の土方巽アーカイブとのコラボレーションによって、「見世物と土方巽」をテーマとした企画である。



戦後、都市化が進行し、街から次々と陰や闇が消え、隅々までが日に晒されてゆくにつれて、方々からの「人倫」という観点からの非難が相次ぎ、見世物小屋は次々と出店停止に追いやられることとなった。
今では見世物小屋を実施可能な機会は、都内においては花園神社と靖国神社の、わずかふたつの祭りにおいてのみ。

現代ではタブーとされた、見世物小屋やサーカスの「倫理的な」是非は一旦、保留にしておこう。
問題は、出店停止へと追いやられてゆく理由や経緯について。
たったひとりの誰かの声により、警察や上の介入が入る。他の多くの人々が、もしかするとその人以外のすべての人々が、その上演を楽しみに心待ちにしている状況であっても、その声を上げたひとりの意見が通ってしまう。
周りは誰一人、そのことに不満の声をあげることはしない。厄介ごとに巻き込まれるのは嫌だから。面倒に首を突っ込むくらいだったら別に、見られなくても仕方ない。

シンポジウムの第二部で聞いたことであるが、これは見世物だけではなく、劇団でしばしば実施される「野外上演」についても同様のことが当てはまるという。
うるさくて迷惑だから。子どもに悪影響を与えるから。見ていて気持ちが悪いから。

苦情の内容は単純に、これらの自分の「不快」感をもとにしたもの。
野外上演を行うことのある劇団は今では、上演場所を確保することが非常に困難であるらしい。

このような状況もなんだかなぁ、と良い気分がしないことであるけれども、これに加えてまったく呆れてしまうようなことが。靖国神社の御霊祭りにおいては、若者のあまりの酒癖と振る舞いの悪さに見世物小屋のみならず露店が全店出店停止になったという。
個々人が酒にまみれ野放図に荒れ回る状況は論外である。しかし周りのひとびとも、遠巻きに眺めるだけ。
他への干渉を拒否すること。自分さえよければ周りの人はどうでも良いと開き直ること。自分のテリトリーは死守するけれども、それ以外であれば構わない。

このことは先ほど同様、見世物やら野外劇場が街から次々と淘汰されてゆく状況を反映しているような気がする。

見世物小屋を存続させるのが良いことなのか悪いことなのかはわからない。芸術や風俗文化に、弾圧はつきものである。そして社会の環境も人々の価値観も、常に同じであり続けることはない。それに合わせて、何か新しい方法での上演を模索してゆく必要も考えてゆく必要も少なからず生じるだろう。

しかし、見世物の危機とも言える状況下で、生まれたときから見世物小屋の子供として生まれ育ち、自分の一部のような存在として育ってこられたおじいさまやおばあさまが感情を堪え切れず涙していた姿が、脳裏に焼き付いている。ああこうして、社会も世の中も目まぐるしく変わってゆくらしい。
そんなふうにしてぼんやりと心に浮かんだ感情は、「他人事」の態度を取っている人々のそれと何ら変わりがないことに気が付いた。


社会とはいつも縁遠いところばかりをほわほわと漂っているので、こういうことを文章におこすことはなかなか慣れないし得意ではないし結局何が言いたかったのかは自分でも良く分からないけれどとりあえず感想を述べてみた。まだこれから見られなくなると決まったわけではもちろんないけれども、今年の夏、このようにちょうど何か一区切りがつきそうなタイミングで、靖国神社にてゴキブリコンビナートさんの見世物を見て、アマゾネスぴょんこさんの火吹きを見ることができたのは幸運だったかもしれない。私は個人的にはもちろん、見世物小屋は細々とでも構わないから、存続してほしいと願っている。花園神社には行けなかったけれど、川越や浦和のほうにも機会があれば足をのばしてみれたら、と思う。

記念シンポジウムの慶應のアーツセンターギャラリーの暗黒舞踏の土方巽とのコラボレーション、という今回の企画の趣旨はあまりにもナイスでした。この大学にいてよかった、と思える瞬間のひとつを久々にじっくりと堪能とした、誕生日の嬉しい贈り物でした。


2014/11/10

『チューリヒ美術館』展 @国立新美術館

国立新美術館で開催された『チューリヒ美術館』展。

開催が告知されてから、HPやポスターのイメージが斬新で目立っていた。太字のポップなフォントで画家の名前が連ねられているのは少し分かりやすすぎはしないかと思ったが、不思議とどこか惹きつけられるデザイン。

平日木曜の朝、授業の休講を利用して開館と同時に訪れたが、その時点で既にかなり多くの人。前の週に行ったウフィツィ美術館ではご高齢の方々が中心だったのに対してこちらの年齢層は幅広かった。

印象主義から象徴主義、シュルレアリスムに至るまで画家や様式別に空間が区切られ、およそ時系列順に並べられている。このように比較的コンパクトな会場で現物の作品の特徴を見比べることができる機会はなかなかない。学芸員の方が教科書的な効果を意図していたのかどうかはわからないが、非常に分かりやすく美術史初心者にとってはとても勉強になる有難い展示だった。


私が真面目に美術館を訪れるようになったのはここ最近のことであり、初めて直接目にした画家の作品も数多くある。

シャガールにさえ、私がそれと認識して対面したのはもしかすると初めてかもしれない。人気投票で上位にランクインするだけあり、そしてポスターでひときわ大きく名前が書かれるだけあり、展示の空間にオーラが漂っている……ように思えたのは気のせいだろうか?
特に彼の《婚礼の光》―、愛する妻を亡くした苦難を乗り越え描いたと言われるこの作品においては、彼の激情の移り変わりが直に伝わってくる。
分かりやすいけれど深みがあって一筋縄ではいかないようにも見えるこの作品は、おそらく今回の全展示作品の中においてもかなり人気が高い一作に入るのだろう。

そしてやはり私にとっては心落ち着くムンク。《冬の夜》は一目見るだけで凍てつくような鬱々とした気分になるような作品で、そのためか長く立ち止まり見つめる人は少ないようだった。そもそも日本人においてはムンクはどの程度人気があるのだろう。(日本海側の雪降り積もる冬の断崖絶壁の様相も、彼の雪まみれの寒々しい森の絵にはなかなか負けてないものがあると思うのだが。)
何にせよただでさえ冷え込み厳しくなるこれからの時季においてこそ、彼の作品は究極的な孤独と絶望とに思う存分浸らせてくれる貴重な存在となり得る気がする…。見ることができて良かった。


購入したポストカードはムンク、マックス・エルンストと、シャガールとをぜんぶで4枚、
気が付いたら手に取っていたのはすべて寒色系だったのはどういうわけか。

さて、良い経験でした。
引き続き西洋美術史の基礎知識習得に精進しなくてはなりませぬ。




2014/11/04

『自家中毒OVERDUB』

渋谷のポスターハリスギャラリーにて、市場大介さんの個展『自家中毒OVERDUB』。



初めて作品にお目にかかりました。増殖する眼球、崩れて中身(?)の露わになった顔面。なかなかに直視し難いであろう作品の数々です。(でも、熟視しちゃった。)

「目さえ潰れてなければ美人なのにね、というのは逆で、みんなどこか潰れているのに、それに気が付かないのかね?」

思わず確かめるように、目のあたりを触ってしまう。
暴力によって外から切り開かれるまでもなく、
増殖して渦巻いて堪え切れずに行き場を失くしたなにものかが、自分からも溢れ出ているのではないかしらという不安に駆られて。
むろん、すべてを曝け出した彼女たちは醜いどころか、女神のごとく聖なるもののようにもみえるものでした。「美人」。


ポスターハリスギャラリーさんは渋谷のなかでも本当に大好きな空間です。アングラポスター展のときに初めて訪れて、これまでこんなに家から近い場所にあるのに知らなかったのはなんてもったいなかったのだろうと感じています。これからもたくさんの素敵な出会いがありますように。



こんど、こんなのもあるって。