2014/09/28

“美”少年愛と性の越境について



シャッツキステという、秋葉原にあるメイド喫茶(といってよいのかな?)を訪問してみました。


"Schatzkiste"ドイツ語で「宝箱」、という意味らしいです。お店の雰囲気に驚いた。


メイド喫茶というからかなり緊張してしまっていたけれど、入ってみると何とも落ち着いて、シックな店内でびっくり、こんな雰囲気のメイド喫茶があるなんて、未知の世界だった。メイドさんの衣装はくるぶしまでの長い丈の、まさに正統派メード服(そう、メイドでなくてメードというほうがしっくりくる)。メイドさんたちは丁寧で、お上品で、しかしみなさんパッと見た感じだけでも、一癖も二癖もありそうな方が…。いいえ、とっても良い意味です。こうでなくちゃ、何もおもしろくありませんもの。


なぜ突然メイド喫茶を訪問したかといえば、とあるイベントが開催されるといって、それを教えていただいたためです。その名も「少年の世界」!!

少年への思いについて、少年愛にあふれたメイドさんがひたすらに語り尽くすという趣旨のイベント。語り手は、燕尾のベストを纏って革のブーツを履いて絶妙な長さのベリーショート、まさにその理想の姿を自分で体現しているではないかといえるくらいの、美形のメイドさん。もう見た瞬間に、「可愛い!」て叫びそうになる。

パワーポイントを使ったプレゼンテーションで、お話もとっても上手で、聞きやすい。どんな感じで進行するんだろうと少し不安もあったが、さすが「語る」イベントだというだけあって、かなり深く考えているらしかったし準備も周到だった。


面白かったところ、興味深かったところについて思いつく限りメモ程度に記述しておく。


◆序盤にあった、「女性が少女でいられるという期間よりも、男性が少年でいられる期間の方が短い」という指摘。なぜならば男性においては第二次性徴として、子どもから大人への段階の変化が非常に明確であるからだ。この指摘、言われてみればあまりにも当たり前なことであるはずなのに、気付いてけっこうハッとした。まさにその通りではないか。(諸々の反論もあるだろうがとりあえずそういうものとして進める)
女性にだって確かに、生理をはじめとしてはっきりとした変化もなくはないが、それはあくまでも隠されていて、スカートの中を、いや下着の中を覗かない限りは周りの目には分からない。あるいはもしかすると、自分にさえ。月経は、気怠さや苛立ち、鉛を抱えるような下腹部への重みといった厭らしい手段をもって我々の意識に、それが来たことを訴えかけてくる。お前は女であるのだという現実を、月に一度という絶妙なタイミングで、決して忘れさせまいとするかのように。しかしそれが月経と結びつくものであると理屈では理解していても、基本的にはただ体の不調にうんうんと唸っているだけで、別に「大人の女性の証だわ」と誇れるようなもんじゃない。

そういうわけだから、少女から大人の女性への変化は男性のそれと比べて圧倒的に緩やかなのだ。だから大人の女性も、少女の"変装"(これも自然に逆らった時間の行き来、ということでジェンダーの越境と同じようにいろいろ変なものが生じるわけなのだけど)をすることは比較的容易である。いい年した大人の女性でさえも、至高の少女としてのアリスやロリータに憧れ、目指すことさえある、そしてそれは決して不可能なことではないのだ。



◆彼女が愛しているのは少年のうちでもとりわけ、「美少年」である。美少年の要素としてあげられていたものは、「美しさ、儚さ、謎」。の三要素。それらを兼ね備えた代表として千と千尋の神隠しのハクが挙げられていた。なるほどまさに。美しさはそれはそうとしても、たとえば話の中身から、その「儚さ」というのが、彼らの持つ外傷のようなものが原因であるらしかった。やっぱKWは外傷なのか…?? 戦闘美少女を参考に色々と思考のお遊びしてみても面白いかも。


◆彼女には「美少年になりたい」という願望がある。彼女のなかで定義される「美少年」という概念の、その究極の形を、自らの肉体において、まさに現在進行形で実現しようとしている。


しかし不思議なのは、初恋の相手が美少年であるハクであった、ということがある。美少年は、自分がなりたい存在であるより先に、自分にとっての初恋の相手であった。恋愛対象としてなのかあるいは憧れを恋愛とらえていたことなのか、は分からないけれど、とりあえずそういうものとして見ていたわけだ。そしてそれから、「彼女は美少年になりたい」、ということに強いこだわりと執着を覚えたのである。

絵本のお姫様になりたくてドレスをねだること、雑誌のモデルやテレビのアイドルに憧れてメイクやダイエットに明け暮れることとは、まあ底を通ずるところはあるのかもしれないにしても、わけが違う。そこでは性という残酷なまでに明瞭、具体的でかつ絶対的な境界線を乗り越えることが必要になる。

女は少年にも、少女にも、背伸びをすれば大人の男にも、なることができるのである。「だから女の子はとても便利」、ああ、まさしく。

◆「美少年になりたい」、その願望が、彼女においてはかなり理想的な形でほとんど実現できてしまっていること。これもまた特筆すべきことであるだろう。「○○になりたい」、大抵の場合においてそんな思いは挫折させられるものであるはず。しかし、彼女自身の努力と、もともとの彼女の資質や容姿がそれを可能にした。自分だけではなく周りもそうだと認めるほどに。

自分のことについて言うなら、私は思春期において、男性への憧れがおそらく平均以上には強かった人間である。それには多分な嫉妬や僻みが含まれていたことだろうが。

しかし、自分の身体を見て、「私にはなれないのだ」、というあからさまな現実を叩きつけられた段階において、その希望は急速に冷めて、消え去った。憧れは捨てることができないままにも、受け入れて諦めていかざるを得なかったのだ。「ボーイッシュな女の子」に憧れて髪を切ってみるとか、ズボンばっかり履いてみるとか、そうした方向には1ミリも向かわなかった。それでも本当の男性には叶うわけがないと、そう思っていたから。(…むしろそこで、反動的に女性性へのこだわり(しかし、それも少女だの娼婦だの、本来的な意味での女性性ではないのかもしれないけど)が歪な形で強くなってしまった人間で、まあまさに"拗らせ"の極地であるのだろう。)


だからある意味羨ましい。自分の理想とする像の、飽くなき追求。彼女のような方を応援したいと思う、心から。


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こんなかんじだろうか。私は少女が大好きで少女びいきだったので、少年には一定の興味は保ちつつも稲垣足穂とかの少年至上主義には少し顔をしかめたくなっちゃう時期があった。主にそれは男性コンプレックスからくるものであって、さすがに最近ではきにならなくなったけど。今回をいい機会にちゃんと向き合わなくては。
そして単なる少年少女だけではなく、今回のテーマのようにそれに「美」がつくとまたいろいろと複雑になる。


少女が美少女とは異なるように、少年も美少年ともその意味においてはだいぶ異なる。また、少年と少女は対称的な印象が持てるのに対して、「美少女」と「美少年」との語感の差は、呆れるほどだ。言うまでもなく美少女にはセクシャルな印象がまとわりつくが、美少年にはそのいやらしさがほとんど感じられない。まあ近年ではBL文化の浸透によってかなり手垢に塗れてかつてのような神聖さを帯びなくなってきたようにも思えるけど。これらについても、一度本当にじっくり対峙しなくてはと思う。


越境する性。トランスセクシャル。あえて残酷なことを言うなら、それでも完全に「なれる」ことは不可能なのだ。境界のギリギリのところでもがきつづけなくてはならない。それがまた、もしかすると彼/彼女らの意図しないところで、新たなリビドーのようなものを生じさせる。

性を越境させる際に生まれてくる、あの熱っぽい魅力は何だろう。歌舞伎役者も、宝塚のトップスターたちも、ドラァグクイーンも。自然に定められた境界を、人工的に踏み越えるたびに、行きつ戻りつするたびに立ち現れる倒錯のエロティシズム(…ああエロティシズムって魔法の言葉)?

その魅力を解き明かすことが、いつか私にもできるだろうか。いや、解明なんていうことは永遠にありえないし、これはそもそもそういう性質の問題ではないんだろうけど。でも、迷宮のなかを誰も到達し得なかったところまで、行きつけるところまで深く潜り込んでみたい、という思いは烏滸がましいながらもそうそう簡単になくなることがないよね。

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