2014/09/30

私はかなり楽天家なほうではあるのだが、たまに、こんなのはどこからどうみても理不尽だろう、ということに直面して気が滅入りそうになるときもある。その怒りというか、苛立ちというか、のやり場をどうするべきか、についてはすべて趣味の世界に逃避することでどうにかするという癖が、気が付いたら身についていた。それをはっきり意識できるようになったのは、高校を卒業するころだっただろうか。

近ごろこんなふうに雑記を書き溜めるようになってからは、すべてこうした文章の中に還元される。こんなふうに直接嫌なことを嫌だと書くことも、たまになくはないけど、大抵の場合においては全く別の内容であったり、かたちとしてだ。そして発散し続けて数日するともうべつにどうでもよくなってしまう。私は憂鬱な気分が顔や態度に如実に表れてしまうらしいけれども、必要以上に思い詰めるといったこともそれほどない。おめでたい脳だとは思う。

 負の感情を発散する方法は人によって異なるのだろうが、私の場合はキーボードをひたすらにタイプすることが手っ取り早い憂さ晴らしになるらしい…ということに気付いた。から、嫌なことがあった時にはPCに向かうことが多い。(根暗だ…。)

 仮にこれで発散が追い付かなくなって、うまく処理しきれないと大変なことになるのかもしれないな。そうならざるをえないような状況に、この先の人生において追い込まれることのないように、願うしかないのだけど。


頑張ろう、というやる気や向上心、嬉しさや感動といったプラスの気持ちから人が活動をするエネルギーを得ることがあるように、負の感情の場合にも、それがある大きなエネルギーとなることもある。そして、そのエネルギーが消費されるという際に、人によっては何かしらのものを産むという行為が伴うことがあるようだ。

 時として怒りや憎しみなどの烈しい負の感情からは、とてつもない何かが生まれてくることがあるような気がする。



それを実感した最近のことについて。夜想のドール特集をぺらぺらとめくっていて、人形作家の与偶さんのインタビュー記事を読んだときのことだった。与偶さんがそうした人形作家さんであるということは、以前にある本で読んで知っていた。だから彼女の話す内容には非常に興味があったのだ。

正直いって、かなりキていた。お下品であることを承知のうえでだがいわゆる「ヤバい」の言葉で表せるような。私のような凡庸な人間が彼女を表現するにはこの言葉がしっくりとくると、言ってしまっても構わないと思う。



記事はなかなか長いほうだ。彼女のひとことひとことを追って行く。紡がれた言葉は鋭利な刃物のように私の皮膚の上を切り付けてくるけれど、その痛みは不思議と自分と一体化するように自然に、体の中へと吸収されてゆく。彼女の言葉は過激だし、気の弱いひとが読んだら卒倒してしまうであろうようなとんでもないことを言っているのだが、しかし脈絡があり論理があるのだ。このように強い感情や思いを言葉で、意味の通る文章として編み出すことは通常は困難であるはず。だから私の頭の中にも自然と入ってきた。あくまでも言葉の上で、だけではあるのだろうけど。


初めて認識した。もとより純粋で完全な負のエネルギーから、なにものかをかたちとして生み出す人というのが実際に存在するのだ。

彼女の場合は、それが人形としてだった。自分なのか、恨むべき相手なのか、あるいは見知らぬ誰かなのか。


果てのない暗闇の森の中を歩み続けるかのように、苦しみ、苦しみ抜いて、彼女は人形を創り生み出す。腕の内側を縦にナイフで切り、人形の内部にはその血を塗りつける。その行為の理由を、「怨念を込めるために。」、と彼女は述べていた。


 人形に籠めるべき怨念の、その向かう先があるのか、だとすれば誰に向けられたものであるのだろう。そしてそれは、ひとりの人間としての彼女の中のどこから湧いて来るのか。あるいはこの世に漂うあらゆる負の感情を彼女が吸寄せて、泥沼のように溜め込んでしまうのだろうか。どちらにしても、一般的にひとりの人間が抱えるには大きくあまりにも重たすぎる負のエネルギーが彼女の肉体と精神に満ち満ちて、ゆらめいていることには違いない。それは人形というかたちをとって、ある程度は放出されるが、ときおり処理しきれなくなり、肉体も精神も蝕み始めることもある。

これらの自身の性質のことを自ら「天性のもの」、と述べていたが果たして本当にそうなのか。怨念を籠めた人形を創り続けることによって、彼女の、あるいは彼女と同様にして苦しんでいるひとたちの心が救われることがあるのか。


彼女たちの「救い」を願うことが正しいのか、私にはわからない。
怒りや憎しみから生まれるものが、喜びから生まれるものよりも劣ったものだなんて、誰が言えるだろう。

この世のすべての人間が楽しさと喜びに満ち溢れる世界なんて有り得ないし、それを望むのは愚かなことだ。
 しかし、その双方のバランスが取れないことは、ただひたすらに、苦しみというそれでしかない。

苦痛は哀しみとも怒りとも異なる。たったひとりの人間のなかで、肉体の苦痛も、精神の苦痛も、彼女は限界を超えて抱え込みすぎた。油断すれば全てが壊れてしまう。一度壊れたものは決してもとにはもどらない。そしてそれは、彼女というひとりの人間を想うときに、決して望ましいことではない。

救いがどこかにあるとするならば、それは彼女たちの人形なのだろう。
生み出された人形たちが苦悶の表情を浮かべながらも、どこか安らかな眠りについているようにも見えるのは、なぜだろう。

心のなかでひっそりと、祈り続けることにしようと思う。
彼らが、彼女の肉体も精神も、静かに癒してくれるように。
ひとりでも多くの人が、自らに多過ぎる苦しみを課し続ける必要がなくなるように。

2014/09/28

“美”少年愛と性の越境について



シャッツキステという、秋葉原にあるメイド喫茶(といってよいのかな?)を訪問してみました。


"Schatzkiste"ドイツ語で「宝箱」、という意味らしいです。お店の雰囲気に驚いた。


メイド喫茶というからかなり緊張してしまっていたけれど、入ってみると何とも落ち着いて、シックな店内でびっくり、こんな雰囲気のメイド喫茶があるなんて、未知の世界だった。メイドさんの衣装はくるぶしまでの長い丈の、まさに正統派メード服(そう、メイドでなくてメードというほうがしっくりくる)。メイドさんたちは丁寧で、お上品で、しかしみなさんパッと見た感じだけでも、一癖も二癖もありそうな方が…。いいえ、とっても良い意味です。こうでなくちゃ、何もおもしろくありませんもの。


なぜ突然メイド喫茶を訪問したかといえば、とあるイベントが開催されるといって、それを教えていただいたためです。その名も「少年の世界」!!

少年への思いについて、少年愛にあふれたメイドさんがひたすらに語り尽くすという趣旨のイベント。語り手は、燕尾のベストを纏って革のブーツを履いて絶妙な長さのベリーショート、まさにその理想の姿を自分で体現しているではないかといえるくらいの、美形のメイドさん。もう見た瞬間に、「可愛い!」て叫びそうになる。

パワーポイントを使ったプレゼンテーションで、お話もとっても上手で、聞きやすい。どんな感じで進行するんだろうと少し不安もあったが、さすが「語る」イベントだというだけあって、かなり深く考えているらしかったし準備も周到だった。


面白かったところ、興味深かったところについて思いつく限りメモ程度に記述しておく。


◆序盤にあった、「女性が少女でいられるという期間よりも、男性が少年でいられる期間の方が短い」という指摘。なぜならば男性においては第二次性徴として、子どもから大人への段階の変化が非常に明確であるからだ。この指摘、言われてみればあまりにも当たり前なことであるはずなのに、気付いてけっこうハッとした。まさにその通りではないか。(諸々の反論もあるだろうがとりあえずそういうものとして進める)
女性にだって確かに、生理をはじめとしてはっきりとした変化もなくはないが、それはあくまでも隠されていて、スカートの中を、いや下着の中を覗かない限りは周りの目には分からない。あるいはもしかすると、自分にさえ。月経は、気怠さや苛立ち、鉛を抱えるような下腹部への重みといった厭らしい手段をもって我々の意識に、それが来たことを訴えかけてくる。お前は女であるのだという現実を、月に一度という絶妙なタイミングで、決して忘れさせまいとするかのように。しかしそれが月経と結びつくものであると理屈では理解していても、基本的にはただ体の不調にうんうんと唸っているだけで、別に「大人の女性の証だわ」と誇れるようなもんじゃない。

そういうわけだから、少女から大人の女性への変化は男性のそれと比べて圧倒的に緩やかなのだ。だから大人の女性も、少女の"変装"(これも自然に逆らった時間の行き来、ということでジェンダーの越境と同じようにいろいろ変なものが生じるわけなのだけど)をすることは比較的容易である。いい年した大人の女性でさえも、至高の少女としてのアリスやロリータに憧れ、目指すことさえある、そしてそれは決して不可能なことではないのだ。



◆彼女が愛しているのは少年のうちでもとりわけ、「美少年」である。美少年の要素としてあげられていたものは、「美しさ、儚さ、謎」。の三要素。それらを兼ね備えた代表として千と千尋の神隠しのハクが挙げられていた。なるほどまさに。美しさはそれはそうとしても、たとえば話の中身から、その「儚さ」というのが、彼らの持つ外傷のようなものが原因であるらしかった。やっぱKWは外傷なのか…?? 戦闘美少女を参考に色々と思考のお遊びしてみても面白いかも。


◆彼女には「美少年になりたい」という願望がある。彼女のなかで定義される「美少年」という概念の、その究極の形を、自らの肉体において、まさに現在進行形で実現しようとしている。


しかし不思議なのは、初恋の相手が美少年であるハクであった、ということがある。美少年は、自分がなりたい存在であるより先に、自分にとっての初恋の相手であった。恋愛対象としてなのかあるいは憧れを恋愛とらえていたことなのか、は分からないけれど、とりあえずそういうものとして見ていたわけだ。そしてそれから、「彼女は美少年になりたい」、ということに強いこだわりと執着を覚えたのである。

絵本のお姫様になりたくてドレスをねだること、雑誌のモデルやテレビのアイドルに憧れてメイクやダイエットに明け暮れることとは、まあ底を通ずるところはあるのかもしれないにしても、わけが違う。そこでは性という残酷なまでに明瞭、具体的でかつ絶対的な境界線を乗り越えることが必要になる。

女は少年にも、少女にも、背伸びをすれば大人の男にも、なることができるのである。「だから女の子はとても便利」、ああ、まさしく。

◆「美少年になりたい」、その願望が、彼女においてはかなり理想的な形でほとんど実現できてしまっていること。これもまた特筆すべきことであるだろう。「○○になりたい」、大抵の場合においてそんな思いは挫折させられるものであるはず。しかし、彼女自身の努力と、もともとの彼女の資質や容姿がそれを可能にした。自分だけではなく周りもそうだと認めるほどに。

自分のことについて言うなら、私は思春期において、男性への憧れがおそらく平均以上には強かった人間である。それには多分な嫉妬や僻みが含まれていたことだろうが。

しかし、自分の身体を見て、「私にはなれないのだ」、というあからさまな現実を叩きつけられた段階において、その希望は急速に冷めて、消え去った。憧れは捨てることができないままにも、受け入れて諦めていかざるを得なかったのだ。「ボーイッシュな女の子」に憧れて髪を切ってみるとか、ズボンばっかり履いてみるとか、そうした方向には1ミリも向かわなかった。それでも本当の男性には叶うわけがないと、そう思っていたから。(…むしろそこで、反動的に女性性へのこだわり(しかし、それも少女だの娼婦だの、本来的な意味での女性性ではないのかもしれないけど)が歪な形で強くなってしまった人間で、まあまさに"拗らせ"の極地であるのだろう。)


だからある意味羨ましい。自分の理想とする像の、飽くなき追求。彼女のような方を応援したいと思う、心から。


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こんなかんじだろうか。私は少女が大好きで少女びいきだったので、少年には一定の興味は保ちつつも稲垣足穂とかの少年至上主義には少し顔をしかめたくなっちゃう時期があった。主にそれは男性コンプレックスからくるものであって、さすがに最近ではきにならなくなったけど。今回をいい機会にちゃんと向き合わなくては。
そして単なる少年少女だけではなく、今回のテーマのようにそれに「美」がつくとまたいろいろと複雑になる。


少女が美少女とは異なるように、少年も美少年ともその意味においてはだいぶ異なる。また、少年と少女は対称的な印象が持てるのに対して、「美少女」と「美少年」との語感の差は、呆れるほどだ。言うまでもなく美少女にはセクシャルな印象がまとわりつくが、美少年にはそのいやらしさがほとんど感じられない。まあ近年ではBL文化の浸透によってかなり手垢に塗れてかつてのような神聖さを帯びなくなってきたようにも思えるけど。これらについても、一度本当にじっくり対峙しなくてはと思う。


越境する性。トランスセクシャル。あえて残酷なことを言うなら、それでも完全に「なれる」ことは不可能なのだ。境界のギリギリのところでもがきつづけなくてはならない。それがまた、もしかすると彼/彼女らの意図しないところで、新たなリビドーのようなものを生じさせる。

性を越境させる際に生まれてくる、あの熱っぽい魅力は何だろう。歌舞伎役者も、宝塚のトップスターたちも、ドラァグクイーンも。自然に定められた境界を、人工的に踏み越えるたびに、行きつ戻りつするたびに立ち現れる倒錯のエロティシズム(…ああエロティシズムって魔法の言葉)?

その魅力を解き明かすことが、いつか私にもできるだろうか。いや、解明なんていうことは永遠にありえないし、これはそもそもそういう性質の問題ではないんだろうけど。でも、迷宮のなかを誰も到達し得なかったところまで、行きつけるところまで深く潜り込んでみたい、という思いは烏滸がましいながらもそうそう簡単になくなることがないよね。

2014/09/26

『宇野亜喜良60年代ポスター展』ポスターハリスギャラリー

ポスターハリスギャラリー、こんなに素敵なギャラリーが徒歩圏内にあるなんて、恵まれているというほかに言いようがない。前回、ジャパンアーバンギャルド アングラポスター展を訪れた以来の二回目の訪問。なんなら毎日のようにその前を通っているわけだし、ほんとはもっと頻繁に通ってもいいのだけども。


宇野さんの少女たちに囲まれるというのはもう、これはちょっとしたひとつの非日常な幸福でしかないよね。満たされました。



会場でみつけてしまった、うるわしきものたちをすこし紹介…。

「宇野亜喜良は左手の職人である。左手で描く時、右手は縛られて夢見ている。…

毒薬と花に彩られながら、すでに発狂しているかも知れない画家。わたしの誇るべきひとりの友人。それが、宇野亜喜良という男である。」

これは寺山修司です。これでもかというほどの数々の暗喩を用いて、宇野さんについて表現してるんだけど。はぁ…もはや何も言うべきことが見つからないでつ。



それから、詩人の白石かずこさんによって宇野さんについて書かれたエッセイのような文章をみつけて読んでみたら、もう一文一文があまりにガンガン胸に響いてきたのでひとりで打ち震えてた。あれコピーして欲しいのだが…図書館に入れてくれないだろうか…。
(これっぽい。→ http://www.span-art.co.jp/artists/unoakira/60sposters.html




2014/09/25

『種村季弘の眼』展 トークショー

「種村季弘の眼」展に行ってきた。板橋区立美術館、場所は西高島平…都営三田線の最果て。日吉で東急目黒線に乗るときに行き先表示でよく目にしていたので名前に馴染みはあったのだが、まさかこんなにもすぐ自分が行くことになるとは思わなかった。うーん、遠かった!駅に着いてからも美術館まではけっこう歩かされる。

土曜日の午後に行った理由としては、お目当てが当日のトークショーだったからだ。種村季弘の友人であった画家の方2人と、現在スパンアートギャラリーをされている息子さんの種村品麻さん(女性かと思った…)。旧知の仲だった2人と、息子さんということで非常にほんわりゆるゆるっとした感じのトークショーでした。内容はまあ、ほとんどが「怪人」と呼ばれた種村さんのエピソードについて。中身はほとんど無いといってもよいレベルではあるけれど、それでもこういうのって、故人の生前が見えるようで、なかなか楽しいんだよね。作品を読むときにも意識するようになったり、著者に対してより感情が入るようになったりするのだ。温泉や居酒屋好きといったほほえましいエピソードを聞いた後では、どんなに真面目でおっかないような本も、人間味が感じられてちょっと親しみやすくなるのかも。

お客さんたちはなかなか良い年の方ばかりで、私が一番若いかも…?!というくらいだった。挨拶を交わしたり、「ああお久しぶりです」なんて言い合っているような方々が多いところを見ると、どうやらかつてつながりがあったかそういうコミュニティのなかのひとたちなのか、それぞれの親族の方とかなのかもしれない。会場は全体的になかなか盛況で、席も足りなくなってしまっていた。私もこうした中の一員になりたいなぁ、って強く思うのでした。せっかくなんだからちょっとくらい誰かに接触してみようかなぁと思ったりもするのだけれど…、なかなか勇気が出ないね。


本当はぜひとも、10月4日にあるらしい仏文学者の巖谷國士さんの講演が聞きたかったのだが…、まあ、研修会があるのでやむを得まい。


ひとりの文学者というか美術評論家というか、…彼の肩書はなんというんだろう、まぁいいやそれでも、そんなひとりの人間がテーマになって、ひとつの展覧会ができてしまうなんてかっこいいなぁ。怪人だからこそだろう。澁澤に関してもそうだけれど、名前を聞くだけで、「こういうジャンル・領域・雰囲気」というのが分かってしまうというのは、ものすごいことだ。私もそういうのを大成させたいものだ。おお…そうかなるほど、それを人生の目標として据えればよいわけだな!絵空事だなぁ。


そうときまれば、さてと、お勉強しなくちゃならないな。さっそく巖谷さんと種村さんの書籍をAmazonで購入したぞ。まずは魔術的リアリズムから…。