2019/01/10

『ルーベンス展——バロックの誕生』国立西洋美術館


ルーベンス展。ムンクの直後で、メンタルが完全にずっぶずぶのふやっふや状態だったので、全能感溢れるマッチョぶりが、少々こたえた。ルーベンスには少なくともマイナスのイメージを持ったことがなかった、というかバロック絵画を全然知らないのでこれまで関心がなかったのだが、一緒に見る展示の組み合わせが悪かったのかもしれない。

母乳を自分の飢えた父に飲ませる「キモンとペロ」という、エグみの強いテーマがあるということを初めて知る。

ペーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)は、バロックと呼ばれる壮麗華美な美術様式が栄えた17 世紀ヨーロッパを代表する画家です。彼は大工房を構え時代に先駆ける作品を量産し、同時代以降の画家たちに大きな影響を与えました。さらにその能力は画業にとどまらず、ヨーロッパ各地の宮廷に派遣されて外交交渉をも行いました。
本展覧会はこのルーベンスを、イタリアとのかかわりに焦点を当てて紹介します。イタリアは古代美術やルネサンス美術が栄えた地であり、バロック美術の中心もローマでした。フランドルのアントウェルペンで育ったルーベンスは、幼いころから古代文化に親しみ、イタリアに憧れを抱きます。そして1600年から断続的に8年間この地で生活し、そこに残る作品を研究することで、自らの芸術を大きく発展させたのです。本展はルーベンスの作品を、古代彫刻や16世紀のイタリアの芸術家の作品、そしてイタリア・バロックの芸術家たちの作品とともに展示し、ルーベンスがイタリアから何を学んだのかをお見せするとともに、彼とイタリア・バロック美術との関係を明らかにします。近年では最大規模のルーベンス展です。

同時にこちらも。ピラネージを中心に、初期の写真などで構成。

常設で、新収蔵のクラーナハのサロメも観た。存外に小ぶりな作品だったけど、先の企画展でみたサロメよりも、自覚的だしコケットだし妖女感強めだし、ホロフェルネスはなんか首だけで生きてるし、好い。あと、キャプションから執筆者のクラナハサロメに対する並々ならぬ愛を感じた。

光宗薫個展『ガズラー』ヴァニラ画廊



自分のなかに棲む怪物が、自分のことを食い尽くそうとすることへの恐怖。どうにか対話を試みて、宥めて鎮まらせようとしても、気を緩めればすぐにでも襲いかかってくる。暴れて溢れて止まないものたち。統御なんて無意味だし不可能だけど、描き出された昆虫や人間の異形のモティーフたちを構成する線は、それを律しようとする意志の強さと葛藤があらわれているかのように、どこか醒めていて、理知的で、博物学の版画のように綿密で繊細。

2018/08/16

壊すのではなくて

松浦理英子『セバスチャン』(河出文庫)の巻末対談。「すり抜ける」という感覚に共鳴するけれど、自分にはそこまで器用に、そして賢くはやりおおせない。そしてずれて逃れるのだけではなくて、何らかの形で足掻いて抵抗を試みたいと思ってしまうほどには自己顕示欲が強いと思う。立ち向かって、壊そうとする気概まではないのだが。常にその狭間にいる。

松浦 答えになるかどうかわからないんですが、私が十代の頃からよく読んでいたのは、河野多恵子さんや倉橋由美子さんなんですよ。このお二人はもちろん違うタイプの作家ですが、共通したところがあるとすれば、既成の秩序なり上部構造なりに立ち向かうことでは解決がつかないほど、過剰な感性と肉体を持ってしまったという、ありかただという気がするんです。私も、直接的に上部構造に立ち向かう気はしない、立ち向かえない、という感覚がもともとありますね。 
富岡 松浦さんと先行世代の女性作家が決定的に違うと思うのは、彼女らの場合、とにかく壊すものがある、壊す時というのは当然エネルギーが出ますね。だけれども、松浦さんなんかの場合は出発点が違う。壊すべき上部構造は、すでに意識の中で解体して、その上で書き始める。それとも、さっき父権の問題が出たのでもう一度伺いますが、にもかかわらずやはりそういうもの——過去の異物なり建物なりということ——を意識せざるを得なかったのか、そのへんはどうですか。 
松浦 男性社会であるとか父権とか、そういったもののプレッシャーはもちろん見えてはいるのですけれども、それを壊そうという方法で抗ったのでは勝てないという気がするんですよ。書いた当時も、していたと思います。だら、まともに壊そうとして力を込めるのではなくて、むしろ別のレベルに移行することでそういうものを擦り抜けられるんじゃないか、擦り抜けた上で批判できるんじゃないか、といった思いがあったし、いまもありますね。

私的な「演劇」


プロジェクトニクスの『星の王子さま』への出演を機に、ヴィヴィアン佐藤さんが投稿した記事に、ヴィヴィアンさんがドラァグ・クイーンになった経緯が述べられていた。

どんな人でも、誰かが「何か」になる瞬間には、閃光のような美しさがあるのだろうなと思う。

そしてある日、何気なく求人広告の雑誌でショウパブ/ゲイバーへの求人を発見しました。
恐る恐る記載されていた番号に電話をしてみたところ、その店のママが出ました。昼間でしたが彼女は明らかに夜の声。まさに世外に生きる徒の声だったのした。その受話器から流れてくる声色はまさに私にとって目指し憧れていた世界であり、その時代の私が探し求めていた世界そのものだったのです。
その瞬間、私にとっての「演劇的」な舞台が始まったのです。
実際に昼間のショウパブ/ゲイバー面接に行ってみると、煙草の香りとウィスキーやブランデーなどの高級なお酒の香りが染みついた大きなソファに座っていたのは、その声の主のママだったのです。そのママは西麻布の名店プティシャトー出身の花形ニューハーフelleさんでした。ニューハーフと言ってもそのころ世間を一世風靡していた上岡龍太郎関連のような方々ではなく、アートやファッションなどにとても造詣が深く、しかしそれらを知識や流行で受け留めるのではなく、感覚や直感で選び取り、それらが彼女の生き方に直結してみせていたのです。ニューハーフと言っても女性に憧れるのでもなく女性に紛れることではなく、あくまでも異形の存在として生きること。毎日毎日、人のお金でお酒を飲んで、好きなようにチップやタニマチからのお金で生きる。むしろお金はすでに用をなさない意味のない生活と言ってもいいのかもしれません。当時テレビやマスコミに登場していた型にはまったいかにもなニューハーフ像とは掛け離れており、異形で異端の美しさ。女性らしくではなく、自分らしくを叩き込まれました。いまの私の化粧のスタイルやファッションのスタイルを伝授してくれたのはそのelleさんだったのです。
そして「ヴィヴィアン」という名前を与えてもらいました。
… 
仙台西公園で唐組を見て諦念に打ちのめされ、舞踏の世界にさらに違和感を感じ、やっとアタシが求めていた世界で出逢えたのです。それがゲイバーという世外の生き方だったのです。
それは私的な「演劇」でした。
幕が上がって始まり、幕が下がって終わるといった「演劇」ではなく、もっともっと現実の生を生きること。台本や稽古や評価とも全く違う表現、在り方の発見だったのです。

2017/06/05

『ミュシャ展』国立新美術館



 ミュシャは私の想像をはるかに超えて「ロマンチスト」だった…。

「スラヴ叙事詩」——文字通り叙事詩なのだろう。私は「聖書」のようだとも思ったが(近代に生まれた「聖書」)、やはりしっくりくるのはそちらか。時代に見合わなかったというのもやむをないと言わざるを得ないような気もする。

想像以上のロマンチストぶりに置いてけぼりになりかけながら、どうにか一周。スラヴ叙事詩の序盤と終盤、絵筆と気分の乗りに乗ってる感じの数点は割とキてるが、面白く見たし結構好きかもしれない。ミュシャという作家に対する自分の心の距離が掴みきれずにいたが、この展示のお蔭でなんとなく定まったような。

明らかに《スラヴ叙事詩》にフォーカスした展示であるにもかかわらず、展示名に副題がないのには何か理由があるのだろうか?

2017/05/22

『草間彌生——わが永遠の魂』国立新美術館




 ミュシャ展の後に訪問。すでにかなりじっくりと鑑賞して若干疲れてしまったため、さらっと見ようということに。

 私自身がミュシャの方にやや冷笑的になってしまっていたのに対して、同行者はこちらの展示になかなか入り込めなかったようだった。知ってはいるつもりでもどんなふうに「やられて」しまうかわからないから、行く前には少しだけ身構えていたけれど、人を隣にしていたおかげで私も心をのめり込ませ過ぎることがなかった。ニキ・ド・サンファル展の時のように、心の泥濘の中へ沈み込んでしまうことも。良くも悪くも…というところか。無事に健全に生還はしたものの、そのぶんじっくりと作品に対峙することもしなかった。
 見慣れたシリーズの作品たちが中心であったから特に「これ!」というのはなかったし、何か大きな感慨を得たわけでもないが、中央の広大な展示空間はやはり圧巻。天井も高くて、久しぶりに美術館という場を存分に満喫したような気もする。

 チケット売り場にも列、グッズのレジ待ち時間は40分。先日オープンしたGINZA SIXにも作品が飾られて話題になっているけれど、草間彌生がなぜこれほどまでに爆発的な人気を集めているのか。ファッションやアートをめぐるビジネスやら様々な要素が絡まり合っているのだろうが、それにしてもいまひとつ、腑に落ちないままである。鑑賞者たちも、グッズの列に並ぶ人たちも、皆、一体何を思ってあの蝟集した男性器たちを眺めているのだろう。


 同行者が私に伝えてくれた感想。草間彌生の表現する作品たちは、「観る者の心の奥底を映す鏡」であって、あれを通して見ているのは草間彌生の心の叫びではなく、ひとりひとりの心の奥底の自分自身の心の声を映像化して見ている不思議な現象だ、と。初めて聞いたけれど、とても面白い見方だと思う。水玉や網目模様は単純な形の際限なき反復で、単純だからこそそこに投影されるのが自分の心の中身。私は草間の作品を見て、そのように感じることはなかったのだけど、なるほど言われてみれば。

2017/05/08

『快楽の館 篠山紀信』原美術館





展示に行って比較的すぐに書いたはずの文章。篠山氏の作品展示にはそのあとでいくつか見る機会があったりして、考えも色々と変わったり納得したりする部分がある。あとあとから読み返したら、自分もガキだな、とおもわず笑ってしまう毒の吐きぶり。でもそんな生々しい感情の表出というのもまあそれはそれでありだと思うので、まるごと掲載してみる。

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 この展示に関しては愚痴にしかならない。入館前に庭の展示を観てからすぐに違和感はあったのだけれど、それが確実に強くなっていき、展示室を2つ3つ回ったあたりで明らかな確信に変わった。

 被写体の女性たちが撮影された状況や取っているポーズは様々で、堂々と均整の取れた肉体美を披露しているもの。AVの表紙のようにこちらに媚を含んだ上目遣いをするもの。複数人で幼児のように無邪気に戯れているもの。

 館内の、ギャラリー内にとどまらず色々な「美女」達の姿を拝めるわけだけど、そのいずれにも共通して感じたことは、女たちの表情があまりにも露骨に性的であり、それが写真家に対してのみ向けられたもの以外の何ものでもないということだった。それはモデルの真正面に立って観者に向けられた視線と対峙したときに強く感じた。写真家自身は「性」から無縁だ、と話しているそうだが、どの口が言えるのだろう?モデルにはあらゆる女性がいるわけだけれど、その女性たちすべてが従事しているのが、いわば性的なアピール以外の何ものでもないように思われた。もちろん撮影をされているモデル本人たちにそのつもりはなかったとしても、そのように自分に奉仕された瞬間を写真家が切り取ってしまうのだから、永遠の構図として固められてしまうのだから、そしてその写真たちはもといた室内空間に貼りつけられてしまうのだから、被写体の意思には全く関係ないこと。

 これらは私の印象でしかないわけだけれど、いくつか作品そのものにもあらわれてしまった証拠のようなものがある。ひとつは共通点として、一糸纏わぬはずのヌードの女性たちが、室内屋外に関係なく唯一身に付けているのが、靴。それもそのほとんどすべてがハイヒールで、10センチを優に越え、線のように細くて不安定。言わずもがなだけれど靴というのはまた女性性を強く表現するものであってあからさまなアイテムである。女性が履くハイヒールと、履かせられたハイヒールとではその意味が大きく変わってしまうことを実感した。

 (コルセットやら首輪やらといったフェティッシュ関連のものも、自ら装着するのと他人から強制されて装着するのとでは全く異なる。同じ「フェティッシュ」や「SM」という枠に括られるものでも意味合いが大きく異なってくるのだということを改めて感じた。「美学」って、とりあえずでも構わないから必要…。)



 それから、今回の展示作品はそのほとんどが女性のヌード写真であるが、数枚の写真のうちに、ヌードの女性に混じって、男性が登場するものがある(原美術館の館長であるらしい)。正装した男性。裸体の女性とそれを眺める着衣の男性という構図はマネの《草上の昼食》を思い起こさせる。肢体を誇らしげに披露する女性の姿に投げ掛ける視線は、露骨な性的な含みを帯びておらず戸惑いさえも覚えているようにも見えるので(最後の部屋にあった女性と男性との視線の交わし合い(交わせていない)は、ちょっと寒気がした)、いっそう厭らしく思えて気持ちが悪い…というのは私自身の趣味の問題だけど。



 総じて、今回の展示のコンセプトはこの原美術館の建築と一体となって生み出された空間であり、空間自体がひとつの作品あったといえるわけだが、残念ながらそれは写真家の性的なエゴイズムが生み出した「幻想」以外の何ものでもない。それも、下らなくて、陳腐な、安っぽいファンタジー。はっきり言って不快だった。初めから美女たちのストリップショーが披露される「快楽“幻想”の館」とか「自慰の館」とでも銘打っているなら構わない。由緒ある建築まるごと活用した、壮大なインスタレーションとしての「自慰の館」。むしろそのほうがよほど好感が持てるし、そうであれば哀しいオジサマを心から応援もしたくなる。

 問題になると感じるのは、それが美術館という場所で、名高い写真家の「芸術(アート?)」として、行われている、ようにみえること…。そもそもこんな程度で「快楽の館」なんて大それたタイトルを付けないでほしい。仮にも日本の稀代の写真家が、あまりに凡庸な欲求をどストレートに表現する…ということがあるのだということは、百歩譲って我慢するし、まあもうおじいさんなわけだし、仕方ないかなと思う。ただ、それって芸術である前に、エゴなんじゃないの。あとは個人的に気に入らないのは「快楽」の内実があまりにもどストレートすぎてつまらないし驚きも衝撃も何も無い。日本の「エロティシズム」もこの程度では、地に墜ちたな、という印象。みっともないというか、情けないというか。

 写真史を勉強しないといけないと強く感じた。ヌード写真でも、自分が快/不快を判断する基準というのがどこにあるのだろう?