2017/05/22

『草間彌生——わが永遠の魂』国立新美術館




 ミュシャ展の後に訪問。すでにかなりじっくりと鑑賞して若干疲れてしまったため、さらっと見ようということに。

 私自身がミュシャの方にやや冷笑的になってしまっていたのに対して、同行者はこちらの展示になかなか入り込めなかったようだった。知ってはいるつもりでもどんなふうに「やられて」しまうかわからないから、行く前には少しだけ身構えていたけれど、人を隣にしていたおかげで私も心をのめり込ませ過ぎることがなかった。ニキ・ド・サンファル展の時のように、心の泥濘の中へ沈み込んでしまうことも。良くも悪くも…というところか。無事に健全に生還はしたものの、そのぶんじっくりと作品に対峙することもしなかった。
 見慣れたシリーズの作品たちが中心であったから特に「これ!」というのはなかったし、何か大きな感慨を得たわけでもないが、中央の広大な展示空間はやはり圧巻。天井も高くて、久しぶりに美術館という場を存分に満喫したような気もする。

 チケット売り場にも列、グッズのレジ待ち時間は40分。先日オープンしたGINZA SIXにも作品が飾られて話題になっているけれど、草間彌生がなぜこれほどまでに爆発的な人気を集めているのか。ファッションやアートをめぐるビジネスやら様々な要素が絡まり合っているのだろうが、それにしてもいまひとつ、腑に落ちないままである。鑑賞者たちも、グッズの列に並ぶ人たちも、皆、一体何を思ってあの蝟集した男性器たちを眺めているのだろう。


 同行者が私に伝えてくれた感想。草間彌生の表現する作品たちは、「観る者の心の奥底を映す鏡」であって、あれを通して見ているのは草間彌生の心の叫びではなく、ひとりひとりの心の奥底の自分自身の心の声を映像化して見ている不思議な現象だ、と。初めて聞いたけれど、とても面白い見方だと思う。水玉や網目模様は単純な形の際限なき反復で、単純だからこそそこに投影されるのが自分の心の中身。私は草間の作品を見て、そのように感じることはなかったのだけど、なるほど言われてみれば。

2017/05/08

『快楽の館 篠山紀信』原美術館





展示に行って比較的すぐに書いたはずの文章。篠山氏の作品展示にはそのあとでいくつか見る機会があったりして、考えも色々と変わったり納得したりする部分がある。あとあとから読み返したら、自分もガキだな、とおもわず笑ってしまう毒の吐きぶり。でもそんな生々しい感情の表出というのもまあそれはそれでありだと思うので、まるごと掲載してみる。

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 この展示に関しては愚痴にしかならない。入館前に庭の展示を観てからすぐに違和感はあったのだけれど、それが確実に強くなっていき、展示室を2つ3つ回ったあたりで明らかな確信に変わった。

 被写体の女性たちが撮影された状況や取っているポーズは様々で、堂々と均整の取れた肉体美を披露しているもの。AVの表紙のようにこちらに媚を含んだ上目遣いをするもの。複数人で幼児のように無邪気に戯れているもの。

 館内の、ギャラリー内にとどまらず色々な「美女」達の姿を拝めるわけだけど、そのいずれにも共通して感じたことは、女たちの表情があまりにも露骨に性的であり、それが写真家に対してのみ向けられたもの以外の何ものでもないということだった。それはモデルの真正面に立って観者に向けられた視線と対峙したときに強く感じた。写真家自身は「性」から無縁だ、と話しているそうだが、どの口が言えるのだろう?モデルにはあらゆる女性がいるわけだけれど、その女性たちすべてが従事しているのが、いわば性的なアピール以外の何ものでもないように思われた。もちろん撮影をされているモデル本人たちにそのつもりはなかったとしても、そのように自分に奉仕された瞬間を写真家が切り取ってしまうのだから、永遠の構図として固められてしまうのだから、そしてその写真たちはもといた室内空間に貼りつけられてしまうのだから、被写体の意思には全く関係ないこと。

 これらは私の印象でしかないわけだけれど、いくつか作品そのものにもあらわれてしまった証拠のようなものがある。ひとつは共通点として、一糸纏わぬはずのヌードの女性たちが、室内屋外に関係なく唯一身に付けているのが、靴。それもそのほとんどすべてがハイヒールで、10センチを優に越え、線のように細くて不安定。言わずもがなだけれど靴というのはまた女性性を強く表現するものであってあからさまなアイテムである。女性が履くハイヒールと、履かせられたハイヒールとではその意味が大きく変わってしまうことを実感した。

 (コルセットやら首輪やらといったフェティッシュ関連のものも、自ら装着するのと他人から強制されて装着するのとでは全く異なる。同じ「フェティッシュ」や「SM」という枠に括られるものでも意味合いが大きく異なってくるのだということを改めて感じた。「美学」って、とりあえずでも構わないから必要…。)



 それから、今回の展示作品はそのほとんどが女性のヌード写真であるが、数枚の写真のうちに、ヌードの女性に混じって、男性が登場するものがある(原美術館の館長であるらしい)。正装した男性。裸体の女性とそれを眺める着衣の男性という構図はマネの《草上の昼食》を思い起こさせる。肢体を誇らしげに披露する女性の姿に投げ掛ける視線は、露骨な性的な含みを帯びておらず戸惑いさえも覚えているようにも見えるので(最後の部屋にあった女性と男性との視線の交わし合い(交わせていない)は、ちょっと寒気がした)、いっそう厭らしく思えて気持ちが悪い…というのは私自身の趣味の問題だけど。



 総じて、今回の展示のコンセプトはこの原美術館の建築と一体となって生み出された空間であり、空間自体がひとつの作品あったといえるわけだが、残念ながらそれは写真家の性的なエゴイズムが生み出した「幻想」以外の何ものでもない。それも、下らなくて、陳腐な、安っぽいファンタジー。はっきり言って不快だった。初めから美女たちのストリップショーが披露される「快楽“幻想”の館」とか「自慰の館」とでも銘打っているなら構わない。由緒ある建築まるごと活用した、壮大なインスタレーションとしての「自慰の館」。むしろそのほうがよほど好感が持てるし、そうであれば哀しいオジサマを心から応援もしたくなる。

 問題になると感じるのは、それが美術館という場所で、名高い写真家の「芸術(アート?)」として、行われている、ようにみえること…。そもそもこんな程度で「快楽の館」なんて大それたタイトルを付けないでほしい。仮にも日本の稀代の写真家が、あまりに凡庸な欲求をどストレートに表現する…ということがあるのだということは、百歩譲って我慢するし、まあもうおじいさんなわけだし、仕方ないかなと思う。ただ、それって芸術である前に、エゴなんじゃないの。あとは個人的に気に入らないのは「快楽」の内実があまりにもどストレートすぎてつまらないし驚きも衝撃も何も無い。日本の「エロティシズム」もこの程度では、地に墜ちたな、という印象。みっともないというか、情けないというか。

 写真史を勉強しないといけないと強く感じた。ヌード写真でも、自分が快/不快を判断する基準というのがどこにあるのだろう?

『篠山紀信展——写真力』「コレクション展」横浜美術館


 篠山紀信氏の直球のポートレート、という感じか。有名人をぜんぜん知らないので、あれはだれこれはだれ、などと教えてもらいながら鑑賞する。

 コレクション展も、企画展に合わせてすべて写真!とてもよかった。以下の二部構成。

Ⅰ 昭和の肖像 ―写真でたどる「昭和」の人と歴史
Ⅱ “マシン・エイジ”の視覚革命 ―両大戦間の写真と映像




『オルセーのナビ派展』三菱一号館美術館


ナビ派。まとめて見た機会は初めてだろうか。19世紀における室内空間やintimismeの問題など、今更ながら自分の関心領域に関連するものに気づいたり。19世紀末の室内空間という点では、ナビ派をノーマークだったのはいけなかった。2014年に行われたヴァロットン展は行っておくべきだった。

2017/05/07

『茶碗の中の宇宙 樂家一子相伝の芸術』、『マルセル・ブロイヤーの家具』国立近代美術館



 竹橋に用事があったので。もともとはマルセル・ブロイヤー展を目的に訪れたのだけど、もうひとつの企画展の方も興味深くせっかくなのでと入ってみた。茶道の世界、ちらとでも覗いたことがなかったし私に解せるはずもないと思っていたけど、おばさまおじさま方に混ざりながらぼうっと眺める。数を見ていると、全くわからないのがわからないなりになかなか面白くなってくるから不思議。最後の当代吉左衛門の作品は特に、非常に気に入ってしまった。展示のタイトルは別の意味でつけているのだろうけど、15代の作品は、見た目が本当に宇宙のよう。作品のタイトルも、なんだかロマンチック。それまでの落ち着き払った作品たちとのギャップもあって、とても素敵だと感じた。

 マルセル・ブロイヤーの展示は、バウハウスを少しでも勉強してからいくべきだったかもしれない。彼もまた、モダニズムの簡素で洗練されたデザインということで、今回の企画展2つはいずれも装飾の抑圧と排除という点で共通している。私の心はデロリとキッチュの美学を掲げ、その時代に生きてさえいなかった19世紀で止まっているので、モダニズムも「侘び寂び」も圧力をかけてくる敵でしかないと思っていたけれど、装飾を排除するということがいかに難しく高度なことであるかということをしみじみと感じてしまった。装飾を剥ぎ取れば物自体の骨格や物質そのものが包み隠されず露わになる。嘘は吐けないし、誤魔化しも一切きかない。その緊張感、無(とはいえ決して本当に「無」なわけではない)の良さを味わえるようになったというのも、おそらくは年齢のせいだろうか…。

 常設展もしっかり見てしまった。近代美術館の絵画たちは会うたびにどこか心が落ち着く。


茶碗の中の宇宙とは、全ての装飾や美しい形を捨て、手捏ねによる成形でさらに土を削ぎ落としながら造形を完成させていった茶碗を用い、その茶碗によって引き起こされる無限の世界、正しく宇宙のように果てしなく広い有機的空間のことと捉えています。
つまり、一服の茶を点てます。相手は、その茶を飲みます。その行為により二人の関係の全てが茶碗の中を巡ります。その茶碗の中を見つめながらの人間の思いは、他に想像もできないほどの大きく深い意味を有し、まさに宇宙と呼ぶべき無限の世界が広がるのです。
今から450年前、長次郎という人物によって創造された樂茶碗は、一子相伝という形態で現在まで続いています。一子相伝とは、技芸や学問などの秘伝や奥義を、自分の子の一人だけに伝えて、他には秘密にして漏らさないことであり、一子は、文字通り実子でなくても代を継ぐ一人の子であり、相伝とは代々伝えることです。
この様な考え方で、長年制作が続けられている樂焼は、長い伝統を有していますが、しかし、それらは伝統という言葉では片付けられない不連続の連続であるといえます。長次郎からはじまり15代を数える各々の代では、当代が「現代」という中で試行錯誤し創作が続いています。
本展では、現代からの視点で初代長次郎はじめ歴代の「今―現代」を見ることにより一子相伝の中の現代性を考察するものです。正しく伝統や伝承ではない不連続の連続によって生み出された樂焼の芸術をご覧いただけます。