2016/01/28

「旅と芸術――発見・驚異・夢想」展 埼玉県立近代美術館





 埼玉県立近代美術館の企画展「旅と芸術――発見・驚異・夢想」。間に合わないかと思っていたが最終週に駆け込めた。
 監修が巖谷國士さんで、2011年に庭園美術館で開催された「森と芸術」に続くテーマ展ということなのかもしれない。
 おそらく同じ言葉を設定しても監修者によって展示の構成は大きく変わってくるのだろうが、今回の「旅」から連想されて収集されたものは、巖谷さんの趣味と色がかなり強く出ているように思う。実際に展示室を回っていて、彼のこれまでの著作のなかを散策しているような気分になった。今回の展示における「旅」は西欧、それも特にフランスを起点として想定しているものが中心。

 展示は大きな6つの章からなり、それぞれの章が3つほどの部屋に分かれ、その部屋ごとに小さなテーマが設定されている。大航海時代の「驚異」からはじまり、グランド・ツアー、エグゾチズム、オリエンタリズム、自然、鉄道、観光、架空の世界、童話、「内なる野生」の発見…。各々のテーマに合わせ、主に国内の美術館所蔵の絵画、版画、写真が並べられている。作品数は200を超えていた。

 これらのテーマはそれ単独で本が容易に一冊も二冊もかけてしまうような大きなものだと思うから、展示はざっくりにならざるを得ず、見る側も集中して作品と睨めっこして、というよりは、ふらふらと愉しみながら眺めて旅気分に浸る、という鑑賞態度になると思う。けれどその中でも、色々と気付かされる点や興味深い点がいくつもあった。

 「驚異」やエグゾチズムやオリエンタリズム、鉄道のあたりは世界史の図説の「世界の一体化」の頁に興奮して思いを馳せていた、高校生の頃の自分に見せてあげたかった。コンスタンティノープルのセピア色のパノラマ写真や、観光地に向かう鉄道会社のポスター、地中海の陽射しによる鮮烈な色彩を反映した絵画などを目にしていたら、当時も少しは美術に関心が持てていたのではないかとも思う。
 それからシュルレアリスムや童話を、自身の無意識や空想の世界への「旅」と捉えるのは巖谷さんらしく、面白い。このテーマだけでひとつ企画展を開催して欲しいくらい。

 北浦和にある埼玉県立近代美術館には初めて訪れたのだが、美術館は公園のなかにあり、写生をしている女性がいたり、子供が遊んでいたり、と長閑な光景が広がっていた。
 ちなみにここは椅子のコレクションで有名であるらしい。たしかに、いたるところに面白そうなかたちの椅子があったし、MoMASコレクションの展示にも収蔵している椅子を集めたコーナーがあった。だだっ広い空間に、ひたすら20世紀初頭ごろから現在までの椅子だけを集めて順番に展示していくのもやってくれたらと思ったり。すでにあったりするのだろうか。

2016/01/26

「プラド美術館展」 三菱一号館美術館

 三菱一号館美術館で開催中のプラド美術館展。15世紀から19世紀までの作品を中心として、ルネサンス、マニエリスム、バロック、19世紀とおよそ年代順に並べられた展示。プラド美術館の所蔵は王室によるコレクションを中心としており、時代の王の趣味が収集を左右したことから、時を経るごとにコレクションの性格も徐々に変わっていく。特に、1700年のハプスブルク王朝からブルボン王朝へ移行したことによる影響は大きく、宮廷へもフランスの画家たちが流入してきたという。

 有名どころとしては、エル・グレコ、ルーベンス、メングス、ムリリョ、ベラスケス、ゴヤなど。今回の展示の主旨でもあったそうだが、全体的に小さいタブローのものが多い。ボスの作品のひとつで、日本初公開の《愚者の石の除去》がこの企画展での一番の推しであったようだ。
 個人的には、ヤン・ブリューゲルの静物画や風景画をいくつかみることができたのが嬉しかった。全体的に、巨匠の宗教画や神話画というよりも、名も知らなかった画家の、静物やヴァニタス画、風俗画の、ちょっと「外れた」ような描写にふと目が留まる、ということが多かったように思う。単純にスケールの問題かもしれないが。


昼の部。
 
 
 
夜の部。

2016/01/03

『無憂宮 SANS SOUCI: 恋月姫人形作品集』

無憂宮 SANS SOUCI: 恋月姫人形作品集 (E´.T.insolite)
恋月姫
河出書房新社
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 彼女らの瞳(開いていようと、閉じていようと)は自分の身体を見るようにと誘いをかけてくるにもかかわらず、観者の視線をその内奥へと貫入させることを断固として拒絶する。行き場を失い宙吊りとなった視線を、逸らす先には肢体に刻まれた無数の関節の切れ間。性器と同等の役割を負ういくつもの裂け目は、これを侵し分断するという暴力的な衝動を喚起させずにはいない。しかし観者の想像の中でどれほど彼女らに対する凌辱の限りが尽くされようとも、ひとつの切れ目も残さぬよう全てをバラバラに寸断しようとも、その頭部も、四肢も、手首や指の一本においてさえも、彼女らが纏う女王の威厳が損われることは決してないだろう。

 その唇は娼婦のように淫靡な艶を放つ一方で、固く閉ざされた蕾の乳房は少女のそれである。肉体の豊満さを見る者に誇る女神でもなく、慎ましやかに羞らいを見せる乙女でもなく。徹底して視線の客体であるのに、一方的な慾望の対象では在り得ないにとどまらず、その慾望を攪乱し見る者に当惑を引き起こす。諸々のアートのジャンルの狭間に位置するような人形という存在を言語化することは甚だ困難なこころみであるけれど、このような在り方の身体が、主に西欧と異なる文脈に存する東洋という場所で、客体としての役割を引き受けてきた女性を中心に好まれているという事実が語るものは大きいと思う。


……

 恋月姫の既刊の写真集と見比べてみる作業もそのうち。少なくとも直感のレベルにおいて、何かしら、違っている、という感覚はある。