2014/10/21

でろり、についてのめもがき

でろり、とは言い得て妙なことばであると思う。ひらがな(あるいは片仮名でもまた違った趣があるけれど)が喚起する独特な効果と、それを口にするときの舌の動かし方……
発音する側にも躊躇いが生じ、発せられたその音を耳に入れた側にも、厭らしさを禁じ得ない。こんなにも、それの意味する対象を適確に表現した言葉はないのではなかろうかという気さえする。


でろりという言葉自体は岸田劉生が甲斐庄楠音という画家の作品をたとえて使った表現らしく、

「濃厚で奇怪、卑近にして一見下品、猥雑で脂ぎっていて、血なまぐさくもグロテスク、苦いような甘いような、気味悪いほど生きものの感じを持ったもの」(芸術新潮より)

といったもののことを示す。

洗練、優美、上品、幽玄、などのいわゆる「日本的な美」といわれているものに思い切り真っ向から反撥して、下卑で、ギトギトで、グロテスクで無骨、淫靡、無学的…なもろもろを愛好する精神が実は日本美術の根底には脈々と受け継がれてあったのだということで、その美を見出し諸々を崇め讃えましょうとするのがデロリズム。
2000年の芸術新潮にて、とある美術史専門の先生の監修によって、「デロリ」特集が組まれた。縁あって(嘘です、無理矢理作りました)この先生の講義をお聞きすることが叶った。
ので、思ったことをメモ程度に。


でろりを取り上げた理由としてはおそらく、明治維新後に日本に輸入されたヨーロッパ伝統の(古代ギリシアの)美の価値観に影響を受ける前の日本人の感性が、我々の普段慣れ親しんでいるいわゆる「日本の伝統美」のイメージからあまりにも掛け離れていて、いってしまえば「ほらすごいだろうこんな世界もあるのだぞ」ということを示すため、というのがあると思う。大教室で行う講義なのか(こういうものは独占するからこそ良いのじゃない、というegoismに起因する問題提起)どうかについてはさておき、見直すべき意義があるだろうという、それ自体には同意する。

下品でエグいものをひっそりと楽しみ味わうような感性は古今東西どこにでも、どこかの表に出ない社会の裏側においてはあったことではあると思うが、このデロリについては日本人独特と言ってしまえるのだろうか。
東洋美術も西洋美術も全く疎いので下手なことは言えないが、西欧的というよりはどちらかといえば中国に近いものがあるような気がする。
けれど大陸ともまた少し風味が違っていて、少なくともあの派手派手しさにはないものがあるのではないか。唐の煌びやかさを輸入して模倣しようとしたはずの美しき平安京、その羅生門がまた、下人と老婆の醜く見すぼらしい掛け合いの現場というイメージをも私たちに呼び起こすように。(たぶん違う。)

というのは全く的を射ないたとえとしても、中国の紫禁城と西太后で想像するような、スケールの大きいギラギラしたイメージとは異なる何かというのは必ずあるだろう…。
もっとずっと土着的で、密教的なというか、のっぺり、べったりして内に篭った感じというか、あるいは岩井志麻子の小説にみられるような農耕民族的なじめじめとした陰惨な雰囲気というか。


仏像たちの剥脱前の復元予想図を見てみると、確かにどきつくてケバケバしい。あんなに心の安らぎを与えてくれるはずの落ち着いた仏像たち、仮に現在もこの姿だったなら、仏像好きを自称しているお姉さまおばさまがたが、これらにあうために長蛇の列を作ってまで会いに行っただろうか?仏像たちはいまのようにみんなから愛されただろうか?という疑問(反語?)が先生によって提示されていたのだが、なるほどこの問題はまた非常に興味深いものだと感じた。物体も人のものの考え方も、幾年を経て移り変わってゆくものなのだ。


しかしまあ、これらの絵たちをたとえばお部屋の壁に飾って毎朝おはようとかいって愛でられるほど私も肝が座っているわけではなく、個人的な趣味としてはまあ若干の慎ましさと、下卑に堕しすぎることを拒む精神の気高さというのも要求したいところではある(最後に先生がおっしゃっていたように、ガングロがデロリ…であるとするならば、やはり私はこれを手放しに礼讃するというわけにはいかなくなると思う)。

そういう意味ではやはり、幽玄とデロリズムを兼ね備え、見事に調和させており、やはり赤江瀑が日本の美の極致、完成系であると思うのだが。(唐突。でも私の中で赤江美学は確固たる不動の究極の地位を占めてしまったので異論は認めたくても認められない…。)


いずれにせよ問題なのはこういう悪趣味なものを美とする感性が存在するという事実を知らない人がいるのは、勿体無いことなのかもしれないということだろう。
芸術新潮が出てからは14年も経ったのだから、もう一度くらいどこかが特集なり組んでもよいのかもしれないとも思うが。


それにしてもこの講義、かなり大きな教室で行われているわけなのだが、これを聞いてデロリズムに開眼する方が毎年どの程度いるのかはとてもきになるところではある。

今自分でこれを書いている間にも次から次へと考えてみたいことが浮かんできてしまった。でもいまはそこまで時間がないので、またいつの日かに回そう。

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