2018/08/16

壊すのではなくて

松浦理英子『セバスチャン』(河出文庫)の巻末対談。「すり抜ける」という感覚に共鳴するけれど、自分にはそこまで器用に、そして賢くはやりおおせない。そしてずれて逃れるのだけではなくて、何らかの形で足掻いて抵抗を試みたいと思ってしまうほどには自己顕示欲が強いと思う。立ち向かって、壊そうとする気概まではないのだが。常にその狭間にいる。

松浦 答えになるかどうかわからないんですが、私が十代の頃からよく読んでいたのは、河野多恵子さんや倉橋由美子さんなんですよ。このお二人はもちろん違うタイプの作家ですが、共通したところがあるとすれば、既成の秩序なり上部構造なりに立ち向かうことでは解決がつかないほど、過剰な感性と肉体を持ってしまったという、ありかただという気がするんです。私も、直接的に上部構造に立ち向かう気はしない、立ち向かえない、という感覚がもともとありますね。 
富岡 松浦さんと先行世代の女性作家が決定的に違うと思うのは、彼女らの場合、とにかく壊すものがある、壊す時というのは当然エネルギーが出ますね。だけれども、松浦さんなんかの場合は出発点が違う。壊すべき上部構造は、すでに意識の中で解体して、その上で書き始める。それとも、さっき父権の問題が出たのでもう一度伺いますが、にもかかわらずやはりそういうもの——過去の異物なり建物なりということ——を意識せざるを得なかったのか、そのへんはどうですか。 
松浦 男性社会であるとか父権とか、そういったもののプレッシャーはもちろん見えてはいるのですけれども、それを壊そうという方法で抗ったのでは勝てないという気がするんですよ。書いた当時も、していたと思います。だら、まともに壊そうとして力を込めるのではなくて、むしろ別のレベルに移行することでそういうものを擦り抜けられるんじゃないか、擦り抜けた上で批判できるんじゃないか、といった思いがあったし、いまもありますね。

私的な「演劇」


プロジェクトニクスの『星の王子さま』への出演を機に、ヴィヴィアン佐藤さんが投稿した記事に、ヴィヴィアンさんがドラァグ・クイーンになった経緯が述べられていた。

どんな人でも、誰かが「何か」になる瞬間には、閃光のような美しさがあるのだろうなと思う。

そしてある日、何気なく求人広告の雑誌でショウパブ/ゲイバーへの求人を発見しました。
恐る恐る記載されていた番号に電話をしてみたところ、その店のママが出ました。昼間でしたが彼女は明らかに夜の声。まさに世外に生きる徒の声だったのした。その受話器から流れてくる声色はまさに私にとって目指し憧れていた世界であり、その時代の私が探し求めていた世界そのものだったのです。
その瞬間、私にとっての「演劇的」な舞台が始まったのです。
実際に昼間のショウパブ/ゲイバー面接に行ってみると、煙草の香りとウィスキーやブランデーなどの高級なお酒の香りが染みついた大きなソファに座っていたのは、その声の主のママだったのです。そのママは西麻布の名店プティシャトー出身の花形ニューハーフelleさんでした。ニューハーフと言ってもそのころ世間を一世風靡していた上岡龍太郎関連のような方々ではなく、アートやファッションなどにとても造詣が深く、しかしそれらを知識や流行で受け留めるのではなく、感覚や直感で選び取り、それらが彼女の生き方に直結してみせていたのです。ニューハーフと言っても女性に憧れるのでもなく女性に紛れることではなく、あくまでも異形の存在として生きること。毎日毎日、人のお金でお酒を飲んで、好きなようにチップやタニマチからのお金で生きる。むしろお金はすでに用をなさない意味のない生活と言ってもいいのかもしれません。当時テレビやマスコミに登場していた型にはまったいかにもなニューハーフ像とは掛け離れており、異形で異端の美しさ。女性らしくではなく、自分らしくを叩き込まれました。いまの私の化粧のスタイルやファッションのスタイルを伝授してくれたのはそのelleさんだったのです。
そして「ヴィヴィアン」という名前を与えてもらいました。
… 
仙台西公園で唐組を見て諦念に打ちのめされ、舞踏の世界にさらに違和感を感じ、やっとアタシが求めていた世界で出逢えたのです。それがゲイバーという世外の生き方だったのです。
それは私的な「演劇」でした。
幕が上がって始まり、幕が下がって終わるといった「演劇」ではなく、もっともっと現実の生を生きること。台本や稽古や評価とも全く違う表現、在り方の発見だったのです。